猿ヶ辻
京都へ
先日、久しぶりに京都を訪れました。
仙洞御所は京都御所の東南に隣接する、上皇のお住まいです。
建物の多くは嘉永7年(1854)の火災で焼失したままで再建されていませんが、美しい庭園は必見の価値があります。
桂離宮は教科書でもおなじみの日本を代表する名建築で、庭園の美しさでも有名です。
いずれも事前に宮内庁に申し込んでおき、当日は職員の方のガイドで園内を参観します(所要時間は各1時間)。
暑さと体力を考え、午前11時から京都御苑内にある仙洞御所をみて、午後4時に桂離宮見学という、ゆったりした行程にしました。
と書き始めましたが、タイトルで分かるように、今回の話は仙洞御所でも桂離宮でもなく、京都御所の東北隅にある猿ヶ辻についてです。
ちょっとしたきっかけで、いだいていた疑問がひとつ解けたというお話。
猿ヶ辻と朔平門
仙洞御所見学を終えて、地下鉄に乗ろうと丸太町駅に向かっていたら、駅のすぐ手前に「京都御苑閑院宮邸跡収納展示館」という建物を見つけました。
時間に余裕があった上に入場無料だったので入ってみたら、けっこう勉強になる良いところでした。
展示室を見て回っていると、途中の廊下に「京都御苑ニュース」のバックナンバー余部がいくつか置かれていて、その中の「猿ヶ辻はどんなところだったのか」という見出しが目に止まりました。
じつは以前に京都御所を見学したとき、見終わってから御所のまわりを一周したのですが、気になったことがひとつあったからです。
それが「猿ヶ辻」と「朔平門」の位置です。
文久3年(1863)5月20日夜、急進派公家の姉小路公知(あねがこうじ きんさと)が朝廷での会議を終えて帰る途中、猿ヶ辻にかかったところで刺客に襲われて重傷を負い、すぐ近くの自邸にたどりついたものの、そこで力尽きて亡くなったという事件がありました。
犯人が現場に落としていった刀と鞘が薩摩藩の田中新兵衛のものとわかったので、京都守護職が捕り手を出して田中を捕縛し、奉行所に連行しました。
ここで田中が取り調べ前に自刃したため、真相は不明のまま田中が犯人と認定されて、薩摩藩は御所の警備を免ぜられるなど苦しい立場に追い込まれます。
この事件は「猿ヶ辻の変」または「朔平門外の変」と呼ばれる、幕末政局の一大事件でした。
猿ヶ辻で起きたから「猿ヶ辻の変」ですが、そこは朔平門の前(外側)だったのか?
御所を一周したときの感じでは、猿ヶ辻と朔平門はかなり離れていました。
朔平門から猿ヶ辻方向(左端)を望む(ブログ主撮影)
なぜ、「朔平門外の変」なのかと不思議だったのですが、「京都御苑ニュース」の記事を読んでようやく分かりました。
事件が起きた当時と現在では御所の形が変わっていたのです。
御所の敷地が拡張されていた
記事を書いた京都市歴史資料館の伊東宗裕さんによれば、現在の猿ヶ辻は事件当時の位置から86m東に移動しているそうです。
グーグルマップの航空写真に線を入れて、イメージしてみました。
上部中央にあるのが朔平門、右上赤マルで囲んだのが現在の猿ヶ辻です。
黄色の線が慶応2年(1866)に拡張される前の御所の塀で、これをみると文久3年(1863)の事件発生当時は朔平門のすぐ横が猿ヶ辻であったことがわかります。
ついでに当時の絵図を調べてみました。
絵図で御所の左側に描かれている門を出た姉小路公知は、そこから自宅(黄色のマル)に向かうのですが、猿ヶ辻(図の☆印)は曲がり角で死角となりますから、暗殺者がひそむにはもってこいの場所です。
西四辻殿蔵版京都絵図(部分)
姉小路殺害の真犯人は?
「猿ヶ辻の変」はさきに述べたように、犯行に使われた刀の持ち主である田中新兵衛が取り調べ前に自決したため、真相は分かっていません。
史談会幹事で旧薩摩藩士の寺師宗徳が、明治29年(1896)7月の史談会で興味深い話を披露していました。
寺師は近衛家の文書調査のためこの年の4月に京都を訪問したのですが、そこで元曇華院の宮の家人だった吉田嘿(もく、旧名は玄蕃)の話を聞くことができました。
京都の霊名神社ホームページには久坂玄瑞から吉田に送られた書状が掲載されており、その内容から吉田は志士たちの世話役のような存在だったと思われます。
明治に入ると政治から遠ざかったようなのであまり知られていない人物ですが、姉小路・田中の両人と親しかったそうです。
その吉田が、「姉小路暗殺は田中の仕業ではない」と語っていたという話を寺師が紹介しました。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)
姉ヶ小路卿遭難の時の事についてちょっとお話をしておきますが、吉田嘿氏などの見られしところでは、決して薩摩の田中新兵衛の仕業でないと言っておる。
それは吉田氏も極めて同感の士で、田中などと度々取合をしておったが、田中という男は自らが決心した以上は人を斬り果たせないような甲斐ない者でない。
ところが姉ヶ小路卿の一件になると真に粗忽な話で、刀まで棄てて逃げてしもうたという評判である。
真に狼狽した仕業である、とても田中のした仕業とは認められない。
かの際には自分なども取合ったことであるが、まさか田中はそういうことをしないと思うたけれども、腹を切って死んだものであるから罪は田中が背負ったが、どうあってもその時の仕業から考えてみれば、田中の仕業ではないということで、彼のことだけは歴史上に疑いを遺しておいて後日冤(えん)をそそいでもらいたい。
【「姉小路卿遭難の事実附十話」『史談会速記録 第46輯』】
田中新兵衛は「幕末の四大人斬り」に数えられた人物です。(他の3人は、川上彦斎、岡田以蔵、中村半次郎)
その田中の犯行にしては手際が悪すぎるというのが、吉田の見解です。
姉小路暗殺時の様子について、寺師が吉田から聞いた話を続けましょう。
当夜の明け方に姉小路家より吉田氏の宅に急使が来て、急変であるからただちに来てくれということである。
平日密談までも伺うほど懇意であるから、とりあえず馳せ着けたところが、昨夕御所より御帰邸の際に、猿ヶ辻で御所に水を堰き入るる処あり、その堰の処に暴人匿(かく)れて、(中略)
溝の内より飛び出して斬りかけたので、始め中啓をもって受け止めになって、小癪(こしゃく)なと言って向こうの手をつかみ刀を引ったくりになった。
このときすでに傷は受けられたので、兇人はそのままに逃げたが、従士の吉村右京、刀を抜いて投げつけたが、相手は刀鞘も取り落としたまま、雲を霞と逃げ去った。
そこで若徒は喫驚(きっきょう:びっくり)逃げ出し、提灯持ちは一心に駆けて姉小路家の玄関に飛び込んで、大変と大声にどなってそのまま式台に倒れたので、邸内始めて驚き、婦女子等は途方に暮れしが、やや落ちつきて、人びと提灯をともして迎えに出でしに、卿に門外にて出会いしに、奪いし刀を杖につき、田村お供をなし、歩いて帰られ、玄関の処に上がりかけて一声無念と言って御倒れなされたきり絶息になり、それからご家族は上を下へと大騒ぎで、ようやく御寝室にお入れ申したということであります。
今のようなことで、斬りかけた刀を取られるのは田中新兵衛ほどの者の仕業でない、田中はそういう不束なことをする男でない。
いかに姉小路卿が強いといっても、斬りかけて刀を取られるような男でないから、田中が兇手でないという話がありました。【前掲書】
公知とともに戦った従士「吉村」右京は「中條」右京と表記する史料もあります(その次の文にある「田村」も同一人物だと思われます)。
公知の刀を持っていた従者は、暴漢の出現におどろいて、刀を持ったまま逃げ出したので、公知は手に持っていた中啓(ちゅうけい:僧侶がよく持っている半開きの扇)で受け止め、その後相手の刀を奪っています。
吉田は「田中はそういうふつつかなことをする男ではない」と言っていますが、奪い取られた刀と犯人が落としていった鞘はまさしく田中のものだったということは、刀剣鑑定を内職にしていた吉田が自分の目で確認しています。
ただし吉田はその刀は事件前に盗まれたものだと語っています、ふたたび寺師の話です。
吉田氏は始終不審に堪えず、はたして同人なれば平生に似ぬ拙いことをしたと疑ったが、証拠は致し方がない。
それで町奉行所に引き上げられて、調べのないうちに控え所にて腹を切ったので、田中ということはまぬがれぬ。
ところが、二三日前に刀を奪われたことがある。
奪われたか取られたのであろうと思う。
このこと(暗殺)がある二三日前、いかにも心外な目にあったということを言ったことがあるが、明言はせんけれども三本木辺の料理屋で、吉田屋か茨木屋で、諸有志酒宴の席で、刀掛けの刀をすり替えられたことがある。
武士道に欠ける話である。
いかにも心外に見えた様子であるが、その時は一向意に介せないであったが、そうして二日ばかり経ってこの変事であって、真に一驚を喫した。かつそういうことをする以上は、口外めきた一言も無ければならぬが、前後更にそういうことはなかった。
そうして突然そういうことで、要するにこれは田中の刀を盗んだもので、名を田中に借りたものに相違ないという話でありました。【前掲書】
つまり田中は事件の二日前に料理屋で刀をすり替えられ、それが犯行に使われたために犯人とされたという話です。
田中は刀をすり替えられた話はしたが、暗殺をほのめかすような言動はなく、やはりこれは刀を盗んだ者が田中に罪をなすりつけたのに違いないというのが吉田の見解でした。
そうであれば田中はちゃんと弁明すればよいと思うのですが、薩摩武士の心情はちがうようです。
寺師の説明の後に、このようなやりとりがありました。
蒲君(義質) 刀を取られた証拠があれば、腹を切らんでもよさそうなものでありませんか。
寺師君 その心は武士道を重んじたものでありましょう、取られましたと言っても言訳が立たぬからでありましょう。【前掲書】
料理屋で刀を取られましたと釈明するのは、武士としてのプライドが許さなかったということのようです。
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