山内容堂、斉彬の識見に感服

新藩主容堂、吉田東洋の採用を却下される

 前回細川潤次郎が話した「ワイロの使い方」について、後藤象二郎も島津家の事蹟調査で自宅を訪ねた市来四郎たちに同じ話をしています。

それによると山内容堂が採用したかった人物というのは、土佐藩の参政となってさまざまな改革を行ない、のちに土佐勤王党に暗殺される吉田東洋だったそうです。

以下は後藤の証言。

此の吉田元吉(「もとよし」は通称、号が東洋)は容堂の寵臣にして、同人を登庸せんと欲せしは未だ家督せざる前より思い込みしものにて、家を継ぐや直ちに採用せしものにて、才幹識見もある男なり。
同人に付一話あり。
容堂は元と山内の一門より出て本家を継ぎ、少時は養父より斉彬公へ万事の御教訓を願い上げ、先づ斉彬公の撫育に依り人となりたるものなり。
之れ容堂の親話に聞きしことあり。
且つ容堂は尋常一通の人物にあらず。
且つ一門より出しを以て下情にも多少通ぜしに由り、本家を継ぎし以来家臣の採用すべきものを求むるに更になし、只々吉田に勝るものなしと信ぜり。
因って屢々(るる)同人を採用せんことを養父に請うも、旧時の格例等に拘(なず)み決して之れを許されず。
【「島津家事蹟訪問録 政権返上事項故伯爵後藤象次郎君談話」『史談会速記録第170輯』】

山内容堂(隠居前の名は豊信:とよしげ)は土佐藩の15代藩主ですが、分家の生まれで、本家出身の14代藩主豊惇(とよあつ)が25歳で急死したため、急遽養子となって家督を相続しました。

じつは先代豊惇も、藩主だった兄の豊熈(とよてる)が34歳で若死にしたために、その養子となって後を継いだものです。

豊惇は未婚のまま亡くなったので、跡継ぎのいない土佐藩は本来なら取りつぶしになるのですが、藩主の死を隠したままで急ぎ分家の豊信を養子に迎え、豊惇の隠居と豊信の相続を幕府に願い出て、それが許されたのち豊惇の死を発表するという、綱渡りのような相続を行いました。

こんなことができたのは、豊熈の正室が島津斉彬の妹祝姫(ときひめ)だったからです。

斉彬は妹の嫁ぎ先を守るため、親戚の福岡藩主黒田長溥(ながひろ)や親友の宇和島藩主伊達宗城(むねなり)の協力を得て幕府に強く働きかけたものと推測されます。

幕府の実権を握る老中首座が斉彬と非常に親しい阿部正弘であったことも幸いして、この相続は成功します。

養子容堂の教育を斉彬に依頼したのは養母祝姫でしょうか。

そうして、容堂は「斉彬公ヘ万端の御教訓を願い上げ」「斉彬公の撫育に依り人となりたる」ものと思われます。

分家の容堂は土佐生れの土佐育ちで、世間にふれる機会も多かったでしょうから、後藤は「下情にも多少通ぜし」と言ったのでしょう。

本家の養子になって藩主を継いだ容堂は、藩の上級武士の中に使えそうなものがいないことから、当時無役だった吉田東洋を抜擢しようとしますが、「養父」に拒否されます。

容堂が藩主となったとき、豊熈の父である12代藩主豊資(とよすけ)は存命でしたから、吉田の採用を拒んだ「養父」というのは豊資です。


困った容堂は斉彬に相談

後藤の証言を続けます

因って或るとき斉彬公に罷出(まかりいで)て此事を申出て、吉田を用うるの方便を伺いしに、公の御話に、
「人を用ゆること誠に難きものなり、別に手段もなし。
貴公の手許金は若干あるや。
其金の在高を挙げて吉田に賜わり、同人の随意に使わせて評判を執らしめて、出仕口を開かせられよ」
との御話ありしよし。
然し手許金とて余分のものにあらず、僅に一身の支弁にも足らざる位なれば、思いながら終に其策も行うに至らざりしとて、常に斉彬公の大度量ある識見に感服なし居たり。


山内容堂(国立国会図書館デジタルコレクション)


細川の話では、若い容堂にはワイロなどという不正手段は許せなかったとのことでしたが、後藤の証言によると、容堂は手元にお金がなく、斉彬にアドバイスされたワイロ資金を吉田東洋に渡すことができなかったようです。

細川はまた、容堂は人をほめないから斉彬公に感服したと言わないかも知れないと思っていたようですが、後藤は容堂も「常に斉彬公の大度量ある識見に感服」していたと語っています。


自信家容堂が認めた「天下の人物」は島津斉彬と藤田東湖

容堂が斉彬をどのように評価していたかについては、容堂の側近で、後藤象二郎・板垣退助と並び「土佐三伯」と称せられた佐々木高行もこう語っていました。(原文はこちら

御維新後、容堂公と、人物評などをした時に、公の云わるるには、「御維新となったとはいえ、世情六ヶ敷(むずかしく)、余程の人物がなくてはいかぬ」と。
「天下の人物は誰にや」と伺うと、
「今日は知らず、島津斉彬殿か藤田(東湖)ならば、或は難局を能く処理するであろう」と仰せられた。
公にも斉彬公をば余程畏敬せられ居ったのである。
【「斉彬公の薨去」『勤王秘史 佐佐木老公昔日談』】

自信家で人をほめることのない容堂も、斉彬と藤田東湖(「容堂」という号の名付け親)だけには一目置いていたようですね。



幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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