禁門の変での捕虜、扱いは薩摩と会津で大違い


禁門の変

前回「長州征伐に絡む久光の極秘指示」で、禁門の変をおこした長州を征討することについて、内戦を回避するように、島津久光が西郷隆盛らに指示していたという話をしました。

禁門の変というのは、元治元年(1864)7月19日に京都御所周辺でおきた長州軍と幕府側諸藩との戦闘です。

これは前年の文久3年(1863)8月18日の政変で京都から追放された長州が、京都守護職である会津藩主松平容保の討伐を名目として、京都市中に攻め入ったことで始まりました。

激戦がくり広げられたのが、御所をかこむ九つの門(禁門)のひとつ、蛤(はまぐり)御門付近です。

はげしく攻めたてる長州軍に、門を守る会津軍は苦戦しますが、薩摩の大砲隊が応援に駆けつけて長州兵は敗走。

他の戦線も幕府側の勝利となり、長州は京都から一掃されました。

激戦地の地名をとって「禁門の変」または「蛤御門の変」と呼ばれる、幕末史における大事件です。


蛤御門(「京都維新史跡写真帖」京都大学付属図書館所蔵)


長州藩はこの戦いで、遊撃隊総督の来島又兵衛や松下村塾の俊英久坂玄瑞など、有力な藩士をうしないました。

そのため禁門の変の解説では、来島や久坂など長州側の戦死者については必ず言及されています。

当然ながら、逃げ損ねたり負傷して動けなかったために捕虜となった長州兵もいましたが、捕虜についてはあまり書かれていません。

しかし、会津も薩摩も長州兵を捕虜としてとらえていました。

興味深いのは、この捕虜に対する扱いが両藩で大きく違うことです。


捕虜の扱いは薩摩と会津で大差

戦国時代、島津義弘らがひきいる薩摩兵は勇猛果敢なことで知られていました。

しかし戦いが終わればノーサイドで、敵味方の区別なく供養しました。

それを示す六地蔵塔が、南九州の戦跡にいくつも残っています。

その姿勢は幕末においても同様でした。

禁門の変で捕虜にした長州藩士を治療・保護して、半年ほどで長州に戻しています。

土佐の郷土史家寺石正路(てらいし まさみち)の『南国遺事』に、田中正顕(みつあき)伯爵の談話として次のようなエピソードが紹介されていました。(現代かなづかいに直し、句読点を補っています)

薩(摩)人の敵に寛大な(る)は感心である。
現に高野山上に島津義弘高麗陣の石碑があるが、「敵味方、仏道に入らしむ」という句を刻してある。
元治元年甲子の変(禁門の変)、長(州)人九門に敗るる時、薩人はその捕虜を労わり、傷を癒やし、病を治して、これを保護してやった。
さて後年長藩と連合提携の時、その捕虜を戻してやった。
長人少なからず感動した。
【「三八 田中伯爵断片」 寺石正路『南国遺事』】

薩摩は寛大なので捕虜を治療した上で保護していたと書かれています。

小松帯刀に随従していた兵具方兵卒の石黒勘次郎も明治27年の史談会で、捕虜の扱いについてこのように話しています。

<寺師宗徳>
(長州の)生け捕り人は縛ってでも置いたか、また丁寧に取り扱ったか。
<石黒勘次郎>
ちっとも縛っては置きません、(収容場所である)稽古場に居った頃も放して置きました。
別段厳重な締りをするというでも無く、邸内にぶらぶらして置きました。
中には十六ばかりの稚児なども居りましたが、これは可愛がられました。
賄いは三度三度下されました、その頃お邸の賄い方は大森屋と申しました。
彼の時会津の手に生け捕られた人数は二三十人もありましたが、酷(ひど)い目にあったそうでござります、しまいには長州へも返さなかったと申します。
【「元治元年京都乾蛤両御門戦闘の始末附十一節」『史談会速記録 第37輯』】

薩摩に捕われた長州兵は、藩邸で軟禁されていたようです。

いっぽう薩摩とちがって会津の方はかなり残酷に取り扱ったようで、先ほどの『南国遺事』の続きにはこのように書かれています。

これに反し、会津は同時の変、長人の捕虜を頗(すこぶ)る残酷に扱い、爪を抜き、舌を切り、手を切り、なぶり殺しにした。
その中、ある一人の頭に針を打ち込む、容易に死せず遂に十三本も打ち込むと死した。
なかなか豪傑であったと、維新の後会(津)藩の人〔正路曰くその名を聞き落とせしは残念なり:原注〕より聞きたり。
後年長藩が会津に対する復仇心の深かったは偶然ではない。
【「三八 田中伯爵断片」 寺石正路『南国遺事』】

この時の復讐心が、戊辰戦争で降伏した会津に対するむごい扱いになったというのです。

会津藩の苛酷な扱いは長州兵だけではなかったようで、公家出身の高松実村(たかまつ さねむら:子爵)も、明治27年の史談会でこんな話を披露しています。

会津の松平肥後守が守護職になられて、(勤王方の探索が)一層厳重になって、その家来の大野英馬という者が時々探索に拙宅に参った。
その時に書面の端でも見たものか、嫌疑が始まりました。
厳重なお尋ねがござりまして、三條実美の方に向って内々文等も遣って居る様な事を尋ねられました。
一向そういう事は知らぬと言って私は済みましたが、私の家来にひどく嫌疑がかかりまして、巣内式部はとうとう拘留になりまして入牢を致しました。
その間も段々のひどい吟味(=取調べ)で、拷問等に上げられ、歯も抜かれ、爪も抜かれるということで、御一新の年まで拘(とらわ)れて居りました。
【「三條実美公の公実に関する事実附十節」『史談会速記録 第17輯』】

元治元年(1864)9月30日、長州征伐前の和平交渉斡旋の協力を依頼するために長州藩の分家吉川経幹(きっかわ つねまさ)の領地岩国を訪れた高崎五六は、対応した用人香川諒に

「当藩は(禁門の変で)十人あまり召し捕ったが、念入りに保護している。

(いっぽう)会津藩は召し捕った面々の頭上に大針を打ち込むような残忍酷薄なことで、大いに人望を失う処置が多く、協力し合っていくことはできない」

と語っています。(『吉川経幹周旋記 第一』 大針云々は553頁最後から2行目)


西郷隆盛が捕虜を長州に返還

その年の11月4日、征長軍参謀西郷隆盛は和平交渉をかためるために岩国に到着し、吉川経幹と会見しています。

この訪問時に西郷は禁門の変で捕らえた長州兵10名を同行しており、全員を長州藩に引き渡しました。

この捕虜返還について、明治25年の史談会で旧福岡藩士の早川勇がこう語っています。

今一つ申上げる事がござります。
世に尊攘紀事、戊辰始末其他薩長和解の順序を書いたものがあるが、長州が禁闕(きんけつ:御所)に向って暴発した時に、薩摩の手にて長州の兵士を虜にした。
夫れは坂本龍馬などが尽力で、薩長公然往来することになって、薩摩からこれを長州に返したと記してあります。
そうすれば詰り話しの結末は宣いが、事実は間違いであります。
薩摩から長州へ虜を返したは、元治元年八月頃、長州征伐仰せ出された時に、此虜を藩に留めて置んより返すが宣いとて、衣服金銀を与えて返しました。
元治元年十一月私が長州に使者に行った時、萩の政府は、京都戦争の時虜となりし者を、薩摩から叮嚀に送られた、其謝意を致したいが、今は朝敵の国であれば、薩摩に使者をやる訳にもゆかず。
取り揃えて居る品物は、幸に筑前より達しくれまじきや(=福岡藩から渡してくれないか)と、山田直人という人より依頼されました。
其後月形(洗蔵:勤王派の福岡藩士)等と相談致して、品物は洗蔵が預って、藩の役人建部武彦とも謀り、黒崎に来て居たる薩人関山新兵衛とかいう人に渡しました。
此事は世間に間違を伝えてあるから念の為め話しまする。
【「元治元年甲子十二月薩長両藩連合に関する事実」『史談会速記録 第2輯』】

捕虜の返還は坂本龍馬とは関係ないとの証言ですが、なんにせよ薩摩と長州の関係改善に大きく寄与したことは疑いありません。

幕末の薩摩藩に詳しい神田外国語大学の町田明広教授は著書『薩長同盟論』で、「薩摩藩のこの行為は、今回の周旋同様、その後の薩長融和のスタートと位置づけられる重要な事象である」と述べています。

蛤御門の変の後長州は「薩賊会奸」と唱えて薩摩を憎んでいたのですが、「戦いが終わればノーサイド」で捕虜を治療・返還したことが長州人の心を動かし、ついには薩長同盟につながったということでしょうか。



幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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