幕府軍の長州再征中におきた怪事
孟斎芳虎「駒場野景色図」
(国立国会図書館デジタルコレクション)
明治維新関係者の証言集ともいえる『史談会速記録』を読んでいると、ときおり不思議な話に出くわすことがあります。
これは明治37年3月19日の史談会で、旧幕臣(旗本)の田中安國という人が語った話です。発端は慶応元年に行なわれた幕府軍の調練でした。
不吉な前兆
抑(そもそ)も初めに溯(さかのぼ)りますれば慶応元年の頃で、将軍家茂公長州征伐に進発になりました当時でござりまして、其頃四月でありましたか将軍の行軍致されて駒場野に出張になりまして勢揃いがありました事がござります。
【「田中安國君征長時代より維新に至る経歴談附十一節」 史談会速記録第138輯】
田中が語っている「勢揃い」というのは、以下に引用するこのことでしょう。
家茂は慶応元年3月25日、4月21日、5月3日の3回、当時広大な鷹場であった駒場野で大規模な西洋調練を行い、自ら神祖家康以来吉例の金扇馬印を掲げて閲兵し、諸人の耳目を驚かせた。
【久住真也『幕末の将軍』】
駒場野は現在の東京都目黒区駒場、東大の駒場キャンパスがあるところで、この一帯は将軍家が鷹狩りにつかう広大な土地がありました。そこで行なわれた調練というのは、幕府に従わない長州を征伐するための軍事訓練です。
不吉な前兆があらわれたのはその時のことでした。田中の談話にもどりましょう。
其当時雨も降って、駒場野で勢揃いのあった時は困難を致しましたが、其困難の当時に何事もなく行軍は済みましたが、ドウも其当時に不祥(ふしょう=不吉)な兆候がござりましたは、将軍の馬印は諸君もご案内でござりましょうが、銀の月の輪、一は金の五本骨の扇子でござります。
ところが其扇子の要の抜けたことがござります。誠に其当時は嫌な感情に打たれて甚だ不祥の事と思いました。
馬印(うまじるし)というのは、戦国時代に武将が自分のいる位置をしめすために立てた印で、徳川家康はメインの大馬印に竿を含め五メートルの高さがある巨大な金色の扇、サブの小馬印に銀色の三日月を用いており、代々の将軍はそれを受け継いでいました。
この金扇の要(かなめ=扇の骨をとめる金具部分)が、調練中にはずれてしまいます。長州との戦いの前に将軍のシンボルがこわれるのは縁起がわるいため、田中は「嫌な感情」をおぼえたということです。
第二次長州戦争
幕府と長州の戦争は2回ありました。
最初は元治元年(1864)で、禁門の変をおこした長州を征伐するためですが、このときは内戦回避という島津久光の秘密指示を受けていた征討軍参謀の西郷隆盛が動いて、戦闘行為に入る前に長州が降伏しています。
田中が調練に参加したのは慶応2年(1866)6月に始まる2回目の戦いです。怪事はその最中に起こりました。田中の話をつづけます。
其時分の軍(いくさ)でござりますから、彼我共に軍が下手でござります。其中にも中々幕府の方は、詰まり関ヶ原とか大坂あたりの軍ばかりを手本にして居ります故、物事が真に優柔不断である。
長州の方は中々高杉晋作など云う人を始め、桂小五郎、山縣狂介抔(など)と云う腕こきがある。人数は少くても屈強の人が居らるゝ。戦うて見ると此方は大軍でも向こうへも侵入することも出来ませぬ。
繰り返えって周防の大島郡に攻入った事もござりますが、向うにも奇兵隊があって激戦もござりましたが、併し今日から見れば子供の喧嘩をする様な風でござりました。
其中八月の頃に一先ず広島に用向きがあって引取って、其中に夜の十一時頃俄に東の方に当って月の如き火の玉が上ったことがござります。
初めは月の如きの大きさで色も月の如くであったが、上るに従って赤くなり青くなり紫色になって上って仕舞うた事がござります。そういう怪事があったことがござります。
其怪は不思議な事であった故に自分抔は合点の行かぬ事でありましたから、終に段々其事を卜者(ぼくしゃ=占い師)抔に種々尋ねて見ると、これは容易ならぬことであって、将軍であろうか或は関白であろうか、ドウも容易ならぬ国の大黒柱とも云うべき人に何か子細のある事であると卜者が言われました。
二三の者に尋ねても同じ様な事を言って居ります。
其中暫く過ぎてから将軍薨去(こうきょ=貴人が亡くなること)と云う様な事で、其報知に次いで続いて長防二ヶ国の囲みを解きて、水野出羽守が下って囲みを解きて追々軍人は大坂に引揚げた事でございます。
【「田中安國君征長時代より維新に至る経歴談附十一節」 史談会速記録第138輯】
まだ戦争がつづいている「八月の頃」に用事があって広島に行った田中は、「夜中の十一時頃」とつぜん東の空に月のような大きさの火の玉が上がるのを見ます。
それははじめは月のような色でしたが、上がるにしたがって「赤くなり、青くなり、紫色になって」消えてしまいました。
あんまり不思議なので占いをする人たちにたずねて回ると、「国の大黒柱」に変事が起きると言われ、その後家茂将軍が亡くなったと伝えられたとの話です。
家茂が大坂城で亡くなったのは7月20日でしたが、幕府が将軍の死を発表したのは8月20日になってからです。田中が火の玉を見たのは「八月の頃」というだけで、日にちははっきりしていませんが、将軍薨去と同時期だというのは間違いありません。
戦国時代から進歩していない戦い方しかできず劣勢だった幕府は、将軍が亡くなったことを理由に朝廷に泣きついて休戦命令を出してもらい、9月2日に幕府と長州藩が休戦協定を結んで、戦いは集結しました。
田中が見たものが何だったのか、そもそも本当に見たのか、今となっては何も分かりませんが、歴史の隙間に落ちていた怪談です。
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