薩摩人と長州人のちがい(1/2)
薩長の気風は大違い
ともに手をたずさえて明治維新をなしとげた薩摩と長州ですが、その気風はかなりちがっていたようです。
大正13年の史談会で、旗野如水(はたの じょすい)という人が語っている話が面白いのでご紹介します。
旗野は旧越後新発田藩の出身、新発田藩は戊辰戦争で官軍に対抗した奥羽列藩同盟の一員ですが、途中から官軍に合流し、先鋒となって軍を進めて庄内、米沢、会津などの軍と戦っています。
旗野の出身は大庄屋の養子で、勤王派の養父に代り15歳で上京して大村益次郎の部下となり、のち陸軍に入って歩兵大尉のときに宮崎連隊区司令官心得を務めています。
長州藩士大村の部下だったとはいえ、出自としては中立的な立場から薩摩と長州をみた感想といえるでしょう。
(読みやすいように仮名づかいは現代文にあらため、一部漢字をひらがなにおきかえて、句読点をおぎなっています)
少し悪口になるように思いますけれども、露骨にお話致しますが、長州人はとかく細事にわたり過ぎ小心翼々、大将になっても下兵卒の食事のことまでも知らなければならぬことであるが、そこは参謀あり、幕僚に任じてやらせないと、かえって彼らが愛想をつかすことが出来てくる。
しかし、乃木君についてお話しますが、ちょうど私が名古屋から明治十三年に乃木君のところに転じた。
その頃は中隊長でまだ中尉であったが、練兵でもあると連隊長乃木君が来ていて、兵卒の歩く足でも間違った者があるとただちに蹴飛ばす、あるいは鉄砲抱え方の曲がった者は突き飛ばすというわけで、私どもは鼻をあかされた(=出し抜かれた)わけであります。
ただちに隊に帰って、「連隊長殿、今私が附いております、悪ければ私をお叱り下さい。なんで自らお手を下さるるか」というと、「それは悪いことをした、気がつかなんだ。あまり不都合であるから思わず知らずやった、以後はお前に言おう」というような風で済んだのです。
【「大正十三年十一月九日の例会に於ける旗野如水氏の大村益次郎氏遭難時代の記憶及大村夫人の貞節の談話」『史談会速記録第356輯』】
旗野が「乃木君」といっているのは乃木希典(のぎ まれすけ)のことです。
乃木は長州藩の支藩長府藩出身の陸軍大将、日露戦争の旅順攻囲戦を指揮し、その後学習院長となって幼い昭和天皇を教育し、最後は明治天皇に殉じて夫妻で自決しました。
司馬遼太郎の国民的小説『坂の上の雲』では無能な将軍に描かれていますが、私が子供のころには乃木大将は東郷元帥とならぶ日露戦争の英雄だと教わった記憶があります。
それはさておき、この話は、乃木が兵士がおかした細かい間違いをきびしくチェックして叱りつけていたので、副官の旗野がそれはトップのすることではないとたしなめたというエピソードです。
言われてすぐに反省するいさぎよさはいかにも乃木らしいと思いますが、「細事にわたり過ぎ」という長州人の気性がうかがえる話です。
乃木希典
(国立国会図書館デジタルコレクション)
長州人は些事まで立ち入る
旗野はつづけてこのように語っています。
その頃は長州人が連隊長をすれば、副官は鹿児島人というような割り付けであった。
われわれが中隊にあって副官に相談すると、薩摩人はじっさい豪傑風があって大(度)量である、ちょうど連隊長と副官と位地が代っておるようである。
いや俺にはそんなことは聞いてもわからない、直接に連隊長に行って話してくれというような風であった。 だから自分は夕べの二日酔いで椅子に寝ているような不勉強である、というのはあまり細かしく立ち入ると部下の者が働かないという傾きがある。
また、寺内あたりでもそうである。
あれが陸軍大臣時代に外松(孫太郎 とまつ まごたろう、紀州藩出身で陸軍主計総監) がよく言っておった、「中将相当の会計監督が行って計算書をご覧にいれるにもかかわらず、自ら算盤を取って調査しなければ調印してくれないという訳であるから、事務が渋滞するのでまことに困る。
いやしくも監督たる者が責任を負って出した時には盲判を押してもよかろう」と言っておった。
また、児玉であろうとも、長州人はごく些細なところまで立ち入る風があります。
寺内正毅(てらうち まさたけ)は長州出身の軍人で陸軍元帥、陸軍大臣や外務大臣を歴任し、大正5年には内閣総理大臣に就任しています。
寺内正毅
(国立国会図書館デジタルコレクション)
寺内が陸軍大臣時代に、主計総監(会計の責任者で中将)の外松孫太郎が決裁書類を持って行ったら寺内が自ら数字をチェックしたというので、外松は、「そんなことをしたら決済に時間がかかる。自分を信用していないのか」と思ったのでしょうが、現代のコーポレートガバナンスの観点からは寺内がチェックするのは当然です。
しかし当時の風潮としては、それは部下を信用していないと受取られていやがられたようです。
最後の児玉というのは児玉源太郎(こだま げんたろう)で、長州藩の支藩のひとつ徳山藩出身の陸軍大将です。
日露戦争では満州軍総参謀長をつとめ勝利に貢献しましたが、気力を使い果たしたのか、戦争終結の翌年に亡くなっています。
乃木とは反対に『坂の上の雲』で絶賛されている人物ですが、旗野の話によると、児玉といえども長州人の気風を脱却できなかったようですね。
薩摩の立ち撃ち長州の寝撃ち
ところで、『坂の上の雲』の作者司馬遼太郎と小説家子母澤寛の対談の中にも、長州人の気質がうかがえる話がありました。
司馬 土佐に伝わっている話で、こういうのがあります。官軍になった薩長土三藩の兵の鉄砲の撃ち方なんです。
鉄砲の撃ち方で、「薩摩の立ち撃ち、長州の寝撃ち、土佐の斬り込み」というんだそうですね。
薩摩の立ち撃ちはからだ全身を出して撃つんだからよく効きますし、よほど勇気もいりますね。
土佐の斬り込みというのはやはり土佐の人の勇敢さを表しているだけでなく、薩長に比べて土佐人は洋式訓練をあまり経てない証拠ですね。だから斬り込みしかしようがないんでしょうね。
長州人の寝撃ちは長州人のりこうさを表しています。
長州というのは、非常に土地柄が観念的な国でございますね。
つまり観念が先にあって、観念で確かめて次に行動する。行動してからも、その行動を観念と照らし合わせて間違っていなかったか、間違っていたら、すぐ弁解する。
長州人の弁解好きというのがございますが、とにかく観念主義者なんです。
あれは、朝鮮の影響じゃありませんかね。韓国のインテリは非常に観念主義者で議論好きで、議論したら鋭うございますが、むしろ議論の段階で鋭すぎて、ものがつくれないところがありますね。
これは韓国の人の長所であり通弊です。
それが海一重ですから、どうしたって朝鮮の影響、血が多く入ってそうなったものかどうかわかりませんが、他の藩とはちょっと違いますね。
子母澤 わたしは、長州はね、侍の商人みたいなもので、とにかく何でもソロバンをはじく。ソロバンをはじいて結果がでなくては何もやらん。
だから動くときは、必ず幾分でも得をするような動き方をするんじゃないかと思っているんですが。
そこで、西郷が行けばできることも、長州が行けばできない、というようなこともあるんじゃないか、ソロバンをちゃんとはじけば間があくわけですから。
そういうふうに思っています。
【「幕末よもやま」『司馬遼太郎対話選集3 歴史を動かす力』】
自分で確認することもソロバンをはじくことも、どちらも現代ビジネスの世界では大事な習慣だと思いますが、時代のちがいでしょうか。
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