久光は藩主になりたかったのか?

島津久光肖像
(『公爵島津家記念写真帖』より)


江戸で幕府に藩主就任と官位授与を求めた?

島津久光について、明治維新後に「自分はいつ将軍になれるのか?」とたずねたという話がときおり見受けられます。しかしそのようなことが書かれた史料は見たことがありません。(下に引用した薩摩藩の史料には、幕府は腹の中で薩長をおそれているが薩摩には将軍を望む心はない、だが長州はその大望があると書かれています)

「幕府も薩州と長州が腹中恐ろしと申す由に候得共(そうらえども)、御国(薩摩)は将軍望みの心は初よりあらせられざるは私共迄も安心仕居(つかまつりおり)候に、長(長州)の処は疑ふべくもなく、大望の底心は其証拠段々有之(これあり)候」 
【「旧邦秘録 348在京磯永真海友人ヘ通報書牘ノ略、左ノ如シ」 鹿児島県史料『市来四郎史料二』】

ただ、藩主については、渋沢栄一著「徳川慶喜公伝」に、島津三郎(久光)は薩摩藩主になりたいという気持ちがあって、支藩である島津淡路守〔忠寛、日向佐土原藩主〕をして幕府に内々の願い出をさせたと書かれています。(原文はこちら

同書によれば、幕府はこの要望を道理にはずれるとして却下しています。すると、藩主になれないならせめては官位をさずけてほしいといって、また幕府の推選を求める動きにでたとされています。官位のことを幕府に要請したのは大原重徳だそうです。

じつは、どちらの要望も久光のあずかりしらぬことで、これを知った久光は両方とも取り下げさせています。藩主については支藩である佐土原藩の藩主島津忠寛が独断で行なったもので、久光にくわしい芳即正氏(元尚古集成館長)が次のように述べています。

佐土原藩主島津忠寛は、久光を薩摩藩主につけようと幕府に働きかけて却下されると、こんどは松平春嶽に願い出ました。ところがそれを知った久光に怒られ、今度は春嶽にあの話はなかったことにしてくれと断りを入れています。
【芳即正『島津久光と明治維新』 新人物往来社】 

官位については、京都からの指示を受けた大原が、叙任の推薦権者である幕府に従四位上中将に推任するよう依頼しますが、幕府は無位無官の久光にいきなり中将という大名の極官を与えるのは秩序を乱すとして却下しました。

久光は大原がこのような要請をしていることを知って、自分は官位が欲しくて動いているのではないと大原に断り状を出しています。【寺師宗徳「旧功者事蹟取調の報告附十三節」 史談会速記録第51輯】 

斉彬の臨終に立合った久光は藩主就任を辞退した

そもそも藩主就任については、斉彬の側近で臨終に立合った山田壮右衛門の記録があり、それにはこのように書かれています(分かりやすくするため現代文で表示。原文はこちらの310頁)。

哲丸様(斉彬の子息、当時2歳)がご幼少なので、藩主を継ぐのは周防殿(久光)か、又次郎殿(久光の長男、のちの12代藩主忠義)のいずれかとされたが、周防殿は辞退したので、又次郎殿にきまった。
宰相様(先代藩主斉興)にお伺いを立てた上で決定するように。もっとも、暐(てる)姫様(斉彬の次女)の婿養子となって、哲丸様を順養子にするようにとの思し召しである。
【「二三六 御遺言ノ趣山田壮右衛門筆記〔本書新納駿河秘蔵ス〕」『鹿児島県史料 斉彬公史料第三巻』】

つまり、斉彬は臨終にさいして、久光かその子の忠義のいずれかに跡をつがそうとしたら、久光が辞退したので忠義に決まったということを、臨終に立合った山田が書き残しているのです。

史料によっては、たとえば久光よりだいぶ遅れて駆けつけて山田から話を聞いた新納駿河(にいろ するが)の記録のように、忠義だけを後継者候補としたように書かれたものもありますが、幕末史にくわしい佐々木克京都大学名誉教授は、新納の記録について

この記録では、後継者は又次郎(忠義)を第一とするという遺言であったとしており、先の山田壮右衛門の記録とは少しニュアンスが異なるが、しかし斉彬が後継者候補として又次郎に比重をおいて考えていたことを示していると判断してよいであろう。この記録によれば、久光も斉彬から直接遺言を聞いているように思われるから、あるいはその席で久光が後継者となる事を強く辞退し、そのことが新納らに伝えられたとも考えられる。
【佐々木克「幕末政治と薩摩藩」吉川弘文館】

と書いています。

新納の記録では忠義だけしか出てきませんが、久光が辞退したと書かれている山田壮右衛門の記録は新納が秘蔵していたものです。

それから考えると、佐々木名誉教授がいうとおり、久光は自分が藩主になるのを望まなかったというのは真実味があります。 

久光はたびたび官位を辞退している

官位授与についても久光は何度も断っています。最初はさきに述べたとおり江戸で大原が久光にだまって動いた件ですが、久光が江戸からもどったのちにも、勅命をなしとげたことに対する褒賞として朝廷から幕府に官位叙任を内示しています。

しかしこのときも久光は功名利達のためにしたことではないと辞退し、代わりに故斉彬への追贈を願いでたことから、斉彬に島津家の極官である従三位の官位と照國(てるくに)大明神という神号の授与がなされました。【「旧邦秘録 169文久二年十一月十一日」 鹿児島県史料『市来四郎史料二』】

現在鹿児島市で初詣の参拝者がもっとも多い照國神社は、この神号授与にもとづいて創建されたものです。

また、文久3年(1863)の上京時に官位を与えようという朝廷からの申し出に対しても、特別扱いはよくないとして断っています。

さらに、文久4年(1864)1月8日に久光が主導した「参予会議」がはじまったとき、朝廷は久光も参予に任命するとともに朝議に参加するために官位を与えようとしましたが、久光は官位ほしさに参予になったと言われたくないとして、これも断りました。

しびれを切らした朝廷は、文久4年1月12日の夜中に薩摩藩留守居役の内田仲之助を朝廷に呼びだして、参予任命と従四位下左近衛権少将任命の書付を渡したので、久光もついに観念してこれを受諾しています。【「文久三年癸亥九月上京日録」 鹿児島県史料『玉里島津家史料二』 】

久光については、このように官位をたびたび辞退していることをみると、ドラマや小説に描かれているような権力欲・名誉欲は感じられません。

彼は私利私欲ではなく、「日本を西欧列強の植民地にさせない」という兄斉彬の遺志を達成するという、ただそれだけのために動いていたように思えるのですが、どうでしょうか? 

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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