島津久光の率兵上京(5/7) 江戸での久光

国貞「末広五十三次 日本橋」
(国立国会図書館デジタルコレクション)


「昔風の大名行列」で江戸入りした久光に幕府は反感

久光が江戸に入ったときの様子について、松平春嶽はその著書『逸事史補』のなかで、「島津はことのほか立派に昔風の大名行列」だったと書いています。春嶽によると当時は経費節減で諸大名が駕籠をやめて馬に乗ったり、行列の人数をへらしたりしていたようです。

そのようなときに、久光は昔風の大名行列をくんで江戸に入りました。外様大名の家来にすぎない者が幕府の人事を動かすという、空前のふるまいを実現するために、あえてこのようなぎょうぎょうしい形で江戸に乗り込んだと考えることもできるでしょう。

歴史学者で玉里島津家編纂所主任をつとめた中村徳五郎は、江戸入りしたときの久光について史談会でつぎのように語っています。 

久光公は藩主ではありませぬが、藩主並の行列を立て対(つい)の槍を用いて江戸に上りましたから、幕府では非常にこれをいきどおっておりましたが、また如何ともする事が出来なかったのであります。かつまた公は大砲を持って来られましたが、その大砲は解いて函に入れ、何を持って来たかわからぬようにして居ります。イザという時は一戦争する最後の決心をもって江戸に出ております。
【中村徳五郎「神代三御陵及薩藩の事件共」 史談会速記録第392輯】

「対の槍」は大藩の藩主にしか許されていません。権威主義で形式にこだわる幕府は、陪臣の久光が藩主のようにふるまうことが許せなかったのですが、制止することはできませんでした。

久光は斉彬の遺志であった日本を西欧列強の植民地にしないためには政治を変えるしかなく、そのためにはいまの幕府の陣容ではだめで、一橋慶喜や松平春嶽といった能力のある人材に置き換えねばならないと考えていました。

そして幕府がそれをこばむようであれば、幕府と一戦交えて、その結果薩摩藩がほろんでもかまわないという決意をしたうえで、大砲を隠しもって江戸に入ったのです。海江田信義(旧名 有村俊斎:井伊大老を殺害した有村次左衛門の長兄)は、明治21年に自宅をたずねた島津家事蹟調査員の寺師宗徳に、当時の思いをこう語っています。

(文久2年の)御上洛は尋常一様の御上洛にあらず。(久光)公の御決心は、一度京都に出でさせられたる上は、王事に勤めさせられるるは勿論なり。一旦勤王のため御尽力あらん限りは必らず其の功を見ざれば止させざるの御決心なり。夫れが為め障害起るとも避けさせられず。止むを得ざれば幕府に対抗するも辞せざるの思召なり。今日の処、幕府の勢威も未だ地に墜ちしにあらず。然れば一旦事破るるに至ては仮令三国を赤土に変ずるも止まさせられず。順聖公の御遺志を継ぎ、王室の為め赤誠を尽させらるるとの御事なり。
【「島津家事蹟訪問録 故子爵海江田信義翁ノ談話」 史談会速記録第176輯附録】 

つまり、久光はこの計画が失敗すれば幕府と戦争になって、薩摩藩の領土である薩摩・大隅・日向が焦土と化しすかも知れないが、それでもやるしかないとの決心で率兵上京を行なったということです。

幕府は勅命に難色、薩摩の脅しでやむなく承諾

6月7日、一行は江戸に到着します。10日に大原勅使が登城して勅命をつたえ、13日に再度登城して回答を求めましたが、幕府は受諾しません。そのときの様子を慶喜が昔夢会でこう語っています。 

いったい後見職・総裁職をおくについては、大原三位が勅使に立って、島津三郎がそれについてきて、その勅命のことを三郎からはかった。はかったところが皆不承知なのだ。不承知でいく度も押し返して、何分大原のいうようにいかなかった。
【渋沢栄一編 大久保利謙校訂『昔夢会筆記』 平凡社東洋文庫】


徳川慶喜
(国立国会図書館デジタルコレクション)

再三の交渉で、春嶽の政事総裁職(譜代大名ではないため、大老の名称をさけた)のみは承諾したものの、慶喜の将軍後見職だけは頑として受けつけません。というのも、慶喜は現将軍の家茂と将軍の座を争ったライバルだったうえ、出身の水戸家も大奥から毛嫌いされていたからです。

大原がいくら要求しても幕府が一向に勅命を実行しそうにないことから、ついに久光は強硬手段にでました。慶喜はさきほどの話につづけて、こう語っています。 

それで薩州人が閣老方の登城・退散を途中で拝見致すと言って、帯刀をして、あっちへ三人、こっちへ四人というように出たのだね。それでこの事が通らなければという意味を暗に含んで、早く言うとおどしたようなものだ。
それでどうも困るとか何とかいうことで、それからだんだんその説が用いられるようになって、後見職も是非お受けをするようにということを、閣老から勅命というものを達しになったけれども、もともと幕府の方では、後見職や総裁職のあるのを望まない。しかるにやむを得ずして、よんどころなくそれを聴かなければならぬという場合になって、ついに御達しというものまでに運んだのだね。
【渋沢栄一編 大久保利謙校訂『昔夢会筆記』 平凡社東洋文庫】 

一般には、しびれをきらした大原が、6月26日に宿所となっていた伝奏屋敷に老中の脇坂安宅(わきさか やすおり)と板倉勝静(いたくら かつきよ)を呼び、隣室に三人の薩摩藩士を控えさせた上で「承知しないなら大変なことになるぞ」と言ったら老中の顔色が変わり、承知したということが知られています。

しかし、その伏線としてこのような示威行為が行われていたから、老中も大原の言葉に震え上がったのでしょう。老中たちは、桜田門外で井伊直弼が薩摩藩脱藩の有村次左衛門に殺害されたことを思い出したはずです。

この結果勅命どおり、7月6日に慶喜が将軍後見職に、9日に春嶽が政事総裁職に任ぜられました。西郷が「できない」と反対した計画を、久光はついにやりとげたのです。


幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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