島津久光の率兵上京(4/7) 大原重徳を勅使に選ばせる

大原重徳
(京都大学付属図書館所蔵)

ついに勅命を得る

寺田屋事件で浪士ではない自藩の勤王藩士でも斬るというきびしい姿勢をみせた久光に、孝明天皇は「以後も浪士鎮撫に努めるように」という勅書と、いつも身近においていた左文字の短刀をあたえてその功を賞しました。これによって朝廷の久光に対する信頼は確固たるものとなったのです。

こののち、久光は小松帯刀や大久保利通などをつかって近衛家や中山忠能、正親町三条実愛らにねばりづよくはたらきかけ、ようやく5月9日に幕政改革のための勅使派遣と、久光に勅使の随行を命じるという勅命が下されました。

勅命によって幕府を改革し、国論を統一して日本を植民地化から守るという久光の計画。その第一段階はクリアしました。しかし、さらに大きな問題があります。それは勅命をどのようにして幕府に承諾させるかということでした。

そもそも江戸幕府成立以来、幕府と朝廷の実質的な関係は幕府がつねに上位にあり、禁中並公家諸法度がしめすように朝廷はつねに幕府の意向に従わせられていたからです。

しかし、安政5年(1858)に日米修好通商条約を締結するにあたって、幕府が条約調印の勅許を孝明天皇に求め、天皇がそれを拒否したことから、関係は大きく変わりました。これについて、東京大学史料編纂所の本郷和人教授と、国際日本文化研究センターの井上章一教授のおもしろいやりとりがあります。 

本郷 幕末、ペリーが来航した時、江戸幕府は日和(ひよ)った。開国を決断したにもかかわらず、大老・井伊直弼は幕府の決定に箔(はく)をつけるために、朝廷におうかがいを立ててしまった。本当は、おうかがいを立てる必要などまったくなかったのです。そうしたら、大の外国人嫌いだった孝明天皇が「ノー」と言ってきたわけです。
井上 名目だけしかないと思っていた会長のところへ判子(はんこ)をもらいに行ったら、「いやや」と言われてしまったわけやね。井伊は、事前に事務レベル折衝をしていなかったのでしょうか。
本郷 たぶん、していなかったでしょう。事前に折衝をしていたら、もうすこしやり方があったでしょうから。幕府というシステムの錆(さび)が出たように思います。
【井上章一・本郷和人『日本史のミカタ』 祥伝社新書】 

このように幕府と朝廷の関係が変化していたのを久光は見逃しません。幕府とは厳しい交渉いわゆるハードネゴになるでしょうが、日本を守るために何としてもやりとげねばならないという強い意志があるから今回の行動にでたのです。

とはいえ、久光は藩主ではないので江戸城に入ることができず、交渉は勅使が単独でやらねばなりません。

そのため勅使は優秀な交渉人、タフネゴシエーターであることが必要になります。そこで白羽の矢を立てられたのは大原重徳(おおはら しげとみ)でした。

勅使には大原重徳を選ぶよう働きかけ

市来四郎によれば、勅使の人選にはずいぶん日数を費やしたそうです。【市来四郎「薩長両藩不和の原因に関する事実附二十九節」 史談会速記録第25輯】
というのも、従来の勅使は官職のランクで選ばれていたようですが、いかに身分が高くてもふつうの人物で儀式にのみたけているような公家ではとてもこの難しい役目ははたせません。 

薩摩としては、今回は非常特別の勅使なので肝が据わっていて勅命が貫徹できなければ死ぬような人物を選んでほしいと、近衛家や中山家をつうじて願い出ていました。

大原は公家の中でも尊王の志が人一倍強く、誠実で忠義一徹な人物として知られていました。そこで、大原が適任であると近衛家や中山家から朝廷に強く働きかけた結果、薩摩藩の希望通り彼が任命されたのです。

大原は勅使任命にあたり、それまでの家格前例を破って武家のポストである左衛門督(さえもんのかみ)に任ぜられました。

後日談ですが、江戸に到着して初登城の際、玄関にいた役人が着剣をはずして預けるように言ったところ、「私は武官である。主上の御前でも太刀を取らぬ」と答えて拒絶したという話が伝わっています。【『島津久光公實紀一』 東京大学出版会 続日本史籍協会叢書】

江戸城では玄関から先はひとりになるので、初登城のときには大名でさえ心細く思うそうですが、少しもひるまないところに大原の意気込みがうかがえます。 

勅命三事策のうち、久光案のみを提案するよう大原に働きかける

大原に下された勅命は、次の三つのうちの一つを実行するように幕府に要求するというものです。

①将軍が諸大名をひきいて上京し、朝廷で朝政を討議する。
②沿海五大藩主(島津、毛利、山内、仙台伊達、前田)を五大老として国政に参加させる。
③一橋慶喜を将軍後見とし、松平慶永(春嶽)を大老とする。

いわゆる「三事策」ですが、このうち久光の狙いは③で、①は長州藩の主張、②は岩倉具視の主張をふまえたものです。【注3】

三事策は5月20日に勅使となる大原に届けられ、大原は翌21日に久光らをしたがえて京都を出発します。久光は兄斉彬とちがって薩摩で生まれ育ち、領内から出ることなく過ごしていましたから、とうぜん大原とは面識がありません。久光が大原に会うのは、京都を出て4日目の25日、桑名の宿でした。

芳形「東海道桑名」
(国立国会図書館デジタルコレクション)


久光は自分だけでなく小松・大久保・中山中左衛門の三名も大原のところに行かせます。そして、幕府に三事策の中から一つを選ばせるのではいちばん容易なものを選ぶだろうから、もっとも難しい案のみを要求してそれを実行させれば他の二つもおのずから行われる、したがって③案だけで交渉するようにと持ちかけました。

大原の三男重朝が明治32年の史談会でこう語っています。

東海道の中で桑名の駅に於きまして、久光公から大久保、小松、中山の三人が参りまして、「三策の詔勅があるけれども其中一を執(と)れと云う事でありますから、そうすれば一番容易(たやす)い方を執るであろうと思うと、一層其中(そのなか)の一番難い所を主とせられたらば宜(よ)かろう。然らば他の二事は言わずして行わるる次第でござりますから、望みを達する事であろう。是非そう為されずばならぬ」ということで、其(それ)以来意を決しまして一ヶ條に致しましてござります。其(その)一ヶ條は何が一番六(むず)ケ(か)しいといえば、極く将軍家の嫌やがって居る所の一橋を後見と為す事、春嶽を総裁と為すことは極く嫌うて居るのでござります。其嫌って居る所が一番肝要な所でござりますから、其肝要なことを達せられたならば将軍上洛とか攘夷ということも自(おのずか)ら出来ようということであったのでござります。【大原重朝「勅使三條公東下の御趣旨附四節」 史談会速記録第85輯】

 当時の幕府は一橋慶喜を蛇蝎(だかつ)のごとく嫌っていたと松平春嶽も語っていますので、③案がもっともハードルが高いというのはそのとおりでした。大原はこの申し出に同意して、幕府には久光主張の③案の実行のみを要求することに決めたのです。

久光は自分がのぞむ幕政改革を実現するために、まず勅命をえるべく交渉し、次に大原重徳という頑固一徹な尊王主義者を勅使にえらばせ、さらにその大原に久光案のみで幕府と交渉するようにさせるという手順で詰めています。

幕末の薩摩がめざましい成果をあげたのは藩内に対立がなく一致団結して動いたからだといわれますが、このように一歩一歩着実にものごとを進めていく久光の指揮があったことも大きな要因だといえるでしょう。  



幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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