生麦事件(2/3) 久光は異人殺害を命じたのか?
篠田仙果『皇朝功臣銘々伝 島津久光公之伝』(明治15年)より
行列を乱す者は即切り捨てが薩摩のルール
生麦事件がおきたころの世間のようすと、事件当時の状況について、薩摩藩が編纂した『旧邦秘録』にはこのように書かれています(わかりやすくするため現代文に書き直しています)。
外国人が浦賀その他にひんぱんに来航して、交流や貿易を頻繁に要請するようになったのは、黒船が来航した嘉永六年(1853)からで、修好通商条約を結んだのが安政五年(1858)のことである。文久二年(1862)はそれからわずか4年しかたっていないことから、一般人は外国の事情をわきまえず、幕府の役人でも理解できている者はごくわずかだった。ましてや各藩においては、外国の事情を知る者がさらに少なかったのは言うまでもない。
それだけでなく当時は鎖国・攘夷をとなえる者がほとんどだったので、たまたま外国の事情を知っている者もひっそりと声をひそめている状況だった。そのような中で外国人達は、好き勝手に傲慢で乱暴なふるまいをしていたから、外国人を憎まない者はだれ一人としていなかった。
そうであったから、外国人が行列の中に馬上のまま乗り入れてきて、すでに中央部に入ってこようとする状況だったため、駕籠脇で警備していた奈良原喜左衛門が斬殺した。
元来、藩の大小にかかわらず、大名行列は軍隊の行軍にことならないので、日本人がこれを侵しても切り捨てるのが従来からの慣例とされている。いわんや当時一般が敵視する外国人が、ごう然として馬上のまま侵入してきたのだから、それを許すわけにはいかない。
特に本藩は昔からの厳格な慣例があって、行列を妨害する者があれば、命令を待つことなく直ちに切り捨てることが随行者の使命で、藩士たちが常に胸の奥に意識していた警備上の要点である。
なので、初めに行列の先頭に入ってきたため、誤って乗り入れたのだろうと判断して、行列を避けるように指示したにもかかわらず、避けずに、あえて侵入してきたためにやむをえず斬殺したものである。
【「旧邦秘録 115 八月二一日、国父公ハ江戸高輪ノ邸御発駕、東海道ニ向テ御帰国ノ途ニ就カセラレタリ」『鹿児島県史料 市来四郎資料二』】
文中に、「本藩は昔からの厳格な慣例があって、行列を妨害する者があれば、命令を待つことなく直ちに切り捨てることが随行者の使命」とあるとおり、薩摩藩では行列を妨害するものがあれば、殿様の命令を待つことなく即刻切り捨てるのがルールでした。
世間は久光の指示と誤解
しかし、事件発生直後から英国人殺害は久光の指示だと思われていたようで、松平春嶽も著書『逸事史補』のなかでこう書いています。
そのころの風聞では、三郎(久光)の処置は、英国人が行列を横切ったのを好機として、三郎が駕籠脇の藩士に命令して殺害させたに違いなく、朝廷のご意向にしたがって攘夷を真っ先に始めることで、日本全国に薩摩の功績を輝かそうとした策略にちがいないといわれた。
【松平慶永『逸事史補』 人物往来社 幕末維新史料叢書四】
春嶽は、久光がリチャードソン一行が自分の行列に侵入してきたことを、孝明天皇が希望する攘夷をおこなうチャンスが到来したと考えて、殺害を命じたのだというのです。
じっさいはどうだったのか、久光から直接話を聞いた市来四郎が、明治25年の史談会で、そのときの久光の心境をこう語っています。
(奈良原喜左衛門が)異人かと云う一と声掛けて先頭の方に駆け出して行ったから、きっと外国人がやって来るから行列を縮めるかどうかであろうと、なにげなく聞いていた。
そうすると間もなく駕籠が止まった。さては外国人が行列に踏込んで来たかと思った。そうすると駕籠の側にいる供方の者が前後左右に集った様子で、さては失礼でもしたかと考えて、左右の者に何事かと尋ねたが一向に分らない。
『異国人が参るそうでござります』と言った。それで、行列に支障があったのかも知らないが、喧嘩をせねばよいが、小事を以て大事をあやまるようではいけないと心配をした。
【 市来四郎「文久二年の八月二一日生麦に於て従士英人殺害の事実附十一節」 史談会速記録第10輯】
「小事を以て大事をあやまるようではいけないと心配をした」と 語っているように、久光には外国人とのトラブルは外国から攻撃を受ける口実となることが分かっていました。
しかし藩士たちはそうは考えず、大名行列を妨害する者は誰であってもただちに切り捨てるというルールを優先したのです。じっさいリチャードソン一行の前に久光の行列に遭遇したアメリカ人のヴァン・リードは日本の慣習を知っていましたから、直ちに馬を下りて頭を下げたため、なにごともなく行列をやりすごしています。
夷人殺害は久光の本意ではなかった
話をもどしましょう。リチャードソン殺害の報告を側役の谷川が久光にしたのは、生麦村の休息所に着いて久光が茶を呑んでいるときです、それを聞いたときの久光の思いはこうでした。
さても困った事を致したと、小事を以て大事をひき出したと心配を起こした。そういうことで小事を以て一人二人殺して何にもならない。大変なことをして国難もひき出したと思ったけれども、それを言えば攘夷でこり固まった藩士たちは反発して大騒ぎになるだろうから、黙っていて答えなかった 。
【 市来四郎「文久二年の八月二一日生麦に於て従士英人殺害の事実附十一節」 史談会速記録第10輯】
久光としては、いくら行列に乗り入れたからといっても外人を殺せば国家間の大トラブルを引き起してしまうのは間違いないため、困ったことをしてくれたと思ったのですが、それを言うと藩士たちが興奮して騒ぎがさらに大きくなるおそれがあったため、その場は黙っていたようです。
いっぽう幕府では、外人殺害は久光が幕府を困らせるために行ったものに違いないとして、いきどおりました。さきほどの春嶽と同様、殺害は久光の指示だと信じていたようです。
しかし高島弥之助は著書『島津久光公』の中で、わざわざ次のように書いて久光指示説をつよく否定しています。
この事変におどろきうろたえた幕府は、故意に薩藩をおとしいれるためか、あるいはまちがった伝聞をそのままに信じたものか、当日の英人殺傷事件に対し、久光公がお駕籠の中から従士を指揮し、采配をふるって『やれ』とそそのかしたのだとのウソの宣伝をあえてしたのみか、後年「リチャードソン」の遺族に対する旧幕臣からの弔慰状にも、またこのウソの宣伝を事実として記載されているのは、かすがえすも残念であるから、後の世の歴史家をして誤解させないために、特に書き加えておく。
【高島弥之助「島津久光公」】
久光はいろいろなところで誤解されていますが、これもそのひとつと言えるでしょう。
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