清潔は熱い!

日本人は臭わない

 幕末に外国人が日本を訪れるコースは中国経由がほとんどでした。 

軍艦でやってくる場合でも、香港や上海に寄港して必要な物資を補充してから、長崎や横浜に来航しています。

そうやって、はじめて日本に足を踏み入れた外国人が感心するのは、日本の町並みや人々が清潔なことでした。

たとえば、嘉永6年(1853)に長崎に来航したロシアの有名な作家ゴンチャローフは、長崎奉行所に案内されたときの印象をこう語っています。

先ず目についたのは、中庭や、ござを敷き詰めた(畳か?)木造の階段や、そして最後に当の日本人たちのなみはずれた清楚さであった。
この点については彼らを正当に評価しなければならない。
彼らはすべてお偉方自身も衣服も清楚でたしなみのよさが際立っている。あの濃いチョン髷には、いろんな臭気がついているのではないだろうか。
それにあの羽織には汚点(しみ:原ルビ)でもつけているのではないか。
ところが、皆無なのである。
役人たちは申すに及ばず、さっぱりして趣味のいい服装をしている。
だが、身分の低い者を見ても、裸体や、破れた衣類であるが、汚点やよごれはないのだ。
ところが、たとえば、シナ人などは、人混みの中ではたまったものではない。
白檀樹の香気だけじゃどうにもならない!
あのにんにく臭い息を吸ったら飛ぶ蝿も死にかねない。
日本人は何の臭いもしない。
【イワン・A・ゴンチャローフ著 高野明・島田陽訳『ゴンチャローフ日本渡航記』講談社学術文庫 143頁】

ゴンチャローフは日本に開国と通商を求めるロシア遣日使節プチャーチン提督の秘書官として、長崎に来航しました。

彼の乗ったフリゲート艦パルラダ号はロシアを出たのち大西洋を南下し、喜望峰を回ってインド洋を東に進み、シンガポールと香港に寄港したのち、ペリーに1ヶ月遅れて日本に到着しています。

おそらくは途中の香港で出会った中国人たちと比較して、このような感想をいだいたのでしょう。


日本人はたびたび体を洗う

ゴンチャローフの言葉は第一印象でしたが、日本に長く住んだ外国人も同様の感想をもっています。

イギリスの初代駐日公使となった、ラザフォード・オールコックです。

彼は、安政6年(1859)から文久2年(1862)まで3年間日本に滞在し、帰国したのちに日本での経験を本にしました。

その中にはこう書かれています。

長い経験からして、わたしはあえて、一般に日本人は清潔な国民で、人目を恐れずたびたびからだを洗い(はだかでいても別に非難されることはない)、身につけているものはわずかで、風通しのよい家に住み、その家は広くて風通しのよい街路に面し、そしてまたその街路には、不快なものは何物もおくことを許されない、というふうにいうことをはばからない。
すべて清潔ということにかけては、日本人は他の東洋民族より大いにまさっており、とくに中国人にはまさっている。
中国人の街路といえば、見る目と嗅ぐ鼻をもっている人ならだれでも、悪感(おかん:原ルビ)を感じないわけにはゆかない。
【オールコック著 山口光朔訳『大君の都 幕末日本滞在記(上)』岩波文庫 288頁】

オールコックは1843年の廈門(アモイ)領事館1等書記官を皮切りに、福州領事・上海領事・広東領事を経たのち、駐日総領事兼外交代表として江戸に赴任しています。

中国での長い勤務で感じたことと比較して、日本人の清潔さを賞賛しているのです。

彼が、「人目を恐れずたびたびからだを洗い」と書いているのは、おそらく庭先で行水している姿をよく見かけていたからでしょう。

また、当時の公衆浴場は街路から中の様子がよく見えるような構造になっていたので、人々が風呂でからだを洗っている様子を見ていたからかも知れません。

ラザフォード・オールコック(ウイキメディア・コモンズ)


熱い湯におどろく

入浴中の日本人を見て、びっくりした外国人もいます。

嘉永6年(1853)および安政元年(1864)に来航したペリー艦隊の公式画家、ドイツ人のヴィルヘルム・ハイネです。

彼も帰国後に日本での体験を本にまとめました、そこにはこのような記述があります。

家や街路はすこぶる清潔で、ことに通りは毎日少なくとも一度は清掃されている。
また日本人は毎日水浴する。
裕福な人は内湯があるが、貧しい人は公衆浴場へ行く。
全員、すこぶる温かい湯、正しく言えば熱湯につかるのである。
それゆえ、彼らの皮膚はザラザラと荒れている。
私は一人の日本人の湯浴みしているのを見たが、この時は驚愕のあまり茫然としてしまった。
そして初めの瞬間は、彼が何をしているのか推測もできなかった。
まず、大きな木製の、湯の入った盥(たらい)に坐っている。
湯気が立ちこめ、身体はまるでゆでた蟹のようであった。
盥の下には火が焚かれており、もう一人の男がかいがいしく焚きつけていた。
全体の様子は、身を清める状況というより西洋の中世以前の聖人の殉教のようだった。
湯はとても熱く、私は一分間も手をその中に入れられないほどだった。
あるいは煮られている人といった方がよい。
この湯浴みの男は、すっかり好い気分になっているようで、私がいても一向に恥ずかしがらなかった。
【ハイネ著 中井晶夫訳『世界周航日本への旅』雄松堂出版 新異国叢書第Ⅱ集2 132頁】

「大きな木製の、湯の入った盥」と書いていますが、下から火を焚きつけていたとあるので、ハイネが見たのは五右衛門風呂だと思われます。

男は熱い湯に入って気持ちよくなっているのですが、ドイツ人のハイネの眼には大釜でゆでられている蟹のように見えたのです。

というのも、ヨーロッパ人が入浴するときの湯温は、日本よりずっと低いからです。

ドイツの有名な温泉地バーデンバーデンの入浴温度は34度~36度です。

これに対して日本の温泉は40度~42度、熱いので有名な群馬県の草津温泉には48度という浴槽もあります。

とくに関東人は熱い湯が好きで、いまも江戸の「熱湯文化」を受け継ぐ東京の銭湯の一般的な湯温は42度~44度です。

そんな熱湯に入っている日本人を見たハイネが、「聖人の殉教(釜ゆでの刑?)のようだ」と思ったのも無理ありません。


シャワー文化と浴槽文化

そもそもヨーロッパでは日常的にはシャワーを浴びるのが一般的で、浴槽につかるという習慣はないそうです。

そのため、浴槽(バスタブ)がある家の方が少数派です。

さきほどのオールコックは、江戸から富士山にむかう旅の体験をこう語っています。

主な部屋にはそれぞれひとつずつ、ときには二つか三つずつ浴室がついており、各浴室にはかならずあらゆる種類の便利な備品がそなえつけられている――イギリスでは、正直なところ、一般に浴室そのものはひじょうに不足していて、このように清潔な模範的浴室はめったに見られない。
これらの点にかんしては、日本人はヨーロッパ人に教訓をあたえる立場にある。
われわれは、あらかじめ役人によって選択された家に到着するごとに、かならずお湯と冷水のある風呂が用意されているのを発見したものだ。
最初のものは入浴用で、つぎのは入浴したのちに筋肉をひきしめるためにかぶるのである。
【オールコック著 山口光朔訳『大君の都 幕末日本滞在記(中)』岩波文庫 157頁】

ヨーロッパでもローマ文明は入浴がさかんでしたが、中世以降は入浴文化が衰退したようです。

また、日本と違って湿度が低いことから、シャワーでさっと流す程度で快適になれるし、日本ほど水資源が豊富でないという事情もあったからかも知れません。

なんにせよ、日本の入浴習慣はヨーロッパ人には衝撃的だったと思われます。

私たちにとっては当たり前の入浴が世界的にはめずらしい習慣だということを、幕末に書かれた本で知った次第です。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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