馬の「わらじ」をこっそり変更
プラントハンター
前回は、島津斉彬が中国(清)人の頑迷さを利用して薩摩藩の旧式武器を中国に売却し、その代金で西洋の最新兵器を買おうとしていた話を紹介しました。
今回も日中の民族性に関する話です。
幕末に日本を訪れた西洋人は中国経由でやってくることが多かったのですが、伝統に固執する中国人と、進取の気性を持つ日本人のちがいに着目しています。
その一人が以前『日本民族の優秀性』でもとりあげた、英国生まれの世界的プラントハンター(新種植物採集・移植者)ロバート・フォーチュンです。
彼は1843年7月に香港を訪れて以来、本格的に東洋の植物採集や移植に取り組んできました。
菊・蘭・百合など東洋の代表的な観賞用植物を英国に送り込んだほか、イギリス東インド会社の依頼によって中国からインドに大量の茶の木を移植したことで、インドを茶の大生産地にした人物でもあります。(このため、中国においては、フォーチュンは「茶泥棒」の産業スパイとされているようです)
1859年(安政6年)、中国にいたフォーチュンは日本が長崎・横浜・函館の3港を開港したとの情報を得て、ただちに日本訪問を計画しました。
というのも、日本は珍しい植物の宝庫といわれながら、鎖国のために調査できていなかったからです。
彼は1860年(万延元年)10月~12月と、翌1861年(文久元年)4月~7月の2度にわたって日本を訪問し、さまざまな園芸植物を採集してイギリスに送りました。
この2度目の来日時には、短期間ですが江戸にあったアメリカ公使館に滞在して、タウンゼント・ハリス公使と交流しています。
そのときに興味深いエピソードがありました。
ハリスの馬の蹄鉄をみてすぐに真似
フォーチュンはハリスから聞いた話として、こう語っています。
ハリス氏は日本の馬に蹄鉄を打つことに関連して、おもしろい事情を話された。
それは日本の人びとが自国の進歩に有用なことが判(わか)ると、外国の方式を敏速に取り入れるという例証であった。
私はすでにこの模倣について、日本人とシナ人との間に存在する、いちじるしい相違の原因を述べたことがある。
シナでは「古い慣習」が、あらゆる外国品輸入の防壁となるが、日本人は先進文明を示されると、機敏に採用する。
ハリス氏がはじめて江戸に駐在した時、彼の馬は仕来(しきた)りの蹄鉄が打ってあった。
それまで日本の馬は、わらじをつけるか、何もつけなかったか、どちらかであった。
ある日、ひとりの役人がハリス氏の所に来て、彼の馬の借用を頼んだが、その馬を必要とする目的については、十分質問もしなかった。
この変わった願いは聞き届けられて、しばらくしてから、当然のことながら馬を返してきた。
数日後、馬を借りに来た役人がアメリカ公使館に来て、重大な機密として、ハリス氏に語った所によると、大老(井伊掃部頭:原注)がハリスの馬の蹄鉄を調べるために、使者を派遣したという。
その後は大老の馬も同じ様式で蹄鉄を打ち、他の役人の馬もすべて同様に蹄鉄をつけたそうだ。
【ロバート・フォーチュン 三宅馨訳『幕末日本探訪記 江戸と北京』講談社学術文庫】
広重『名所江戸百景 四ツ谷内藤新宿 』(国立国会図書館デジタルコレクション)
日本の馬を見て驚いたハリス
ハリスはアメリカの初代駐日領事として安政3年(1856)7月21日に来日して、まずは下田(玉泉寺)に領事館を構え、日米修好通商条約締結の功績で初代駐日公使に昇格したのち、安政6年(1859)6月にはアメリカ公使館を江戸(麻布善福寺)に開設しています。
ハリスが乗馬用の馬を入手したのは、来日して4ヶ月後の11月23日ですが、届けられた馬の足元を見て驚きました。
彼はその時のことを、日記にこう記しています。
私の乗馬が、ようやく到着した。
それは元気のよい競走馬ではないが、私の目的には適うだろう。
(中略)
馬は草鞋(わらじ)をはいている。
この草鞋は、約一時間の道のりに耐えるだけだ。
【坂田精一訳『ハリス日本滞在記』岩波文庫】
ハリスの日記には、彼がいつどうやって馬のわらじを蹄鉄に替えたのかについての記述はありません。
おそらくは3年間いた下田時代に不便なわらじをやめて蹄鉄に替え、その馬を江戸につれてきたのでしょう。
そして蹄鉄をみた役人が大老に報告したことから、フォーチュンの話のようになったものと推察されます。
日本の馬が本格的に蹄鉄を打つようになったのは、明治時代の陸軍がはじまりといわれていますが、それ以前にも例外的はケースはあったようですね。
なんにせよ、「自国の進歩に有用なことが判ると、外国の方式を敏速に取り入れる」日本人の民族性をしめす面白い事例です。
0コメント