老中のキャリアパス
徳川幕府の大臣職
旗本のキャリアパスについて説明したので、ついでに老中のキャリアパスにも触れておきます。
ご存じのように老中というのは現在の日本政府でいえば閣僚にあたるポストです。
老中を閣僚とすると、その上には総理大臣にあたる「大老」職がありますが、こちらは臨時に設けられるポストで、徳川幕府15代265年間で9名しか任命されていません。
いっぽう老中は常設で、常時4~5名が在籍して幕府の政務を総理します。
徳川幕府創設者の家康は、大名が謀反を起こせなくするために、実力(資力=石高)と権力が重ならないように配慮しました。
そこで謀反をおこす可能性が高い外様大名には大きな石高を認める代りに政策にはタッチさせず、国政を担う老中は5万石から10万石の譜代大名(=あまり資力のない子飼いの家来)から任命するようにしたのです。
老中には月番が決められていて毎月交替で政務を見ることになっていましたが、職務多忙かつ重要案件は合議する必要があったことから非番の老中も毎日登城しており、月番はその月の事務責任者というイメージだったようです。
以前「老中も部下次第?」で触れたように、老中というのはたいへんな権威があり、かつ頼みごとを持ち込む諸大名や旗本たちからの付け届けも多かったので、譜代の小大名にとってはあこがれのポストでした。
老中になるための関門
あこがれのポストである老中職ですが、そこにたどり着くためにはさまざまな関門ポストを突破する必要がありました。
具体的にはこうなっています。
門番(本丸大手、西丸大手の警備)
↓
奏者番(儀式の差配)
↓
寺社奉行(弁が立つ神官・僧侶の管理や訴訟の裁き)
↓
大坂城代(雄藩の多い西国大名の統括)
↓
京都所司代(権高な公家たちとの折衝)
↓
老中(ゴール!)
門番からはじまって京都所司代まで、5つの役職をクリアできれば国政担当能力があると認定されるわけです。
まずは門番から
スタートとなる大手門の門番については以前「暴れ隠居の横綱」で触れましたが、10万石以上の譜代大名が務めるポストです。
それより小さい禄高の譜代大名は西丸大手門の門番となります。
門番といっても、江戸城正門のガードですから当然武装した兵士を配備しなければなりません。
そうして水も漏らさぬ警備を行なうのです。
市岡正一の『徳川盛世録』によれば、大手門門番は鉄炮30挺、弓10張、長柄鎗20筋、持筒2挺、持弓2張の武器を備えて、10人の番士が詰めていたとあります。(西丸門番は鉄炮が20挺に減るだけで、あとは同じ)
時代は少し下がりますが、明治4年に撮影された大手門奥「中之門」の写真が残っています(くわしく知りたい方はこちら)
明治4年の江戸城「中之門」(『幕末・明治・大正回顧八十年史』第1輯)
寺社奉行は持ち出し、大坂城代で一息
門番を無事に勤め上げると、次の関門は奏者番(そうしゃばん)です。
職務は年頭や五佳節、朔望などの登城日に諸大名が将軍に謁見するときの指図をしたり、進物の披露をしたりなど、殿中の礼式に関することをつかさどるもので、現代でいえば宮内庁の式部官のようなポストです。
人数は結構多くて、最大では24名いたときもあったようです。
寺社奉行はこの中から選ばれるため、奏者番は譜代大名が出世するための登竜門という位置づけでした。
そうしてここをパスすると、いよいよ江戸幕府三奉行のひとつ、寺社奉行です。
他の二つの奉行職(町奉行・勘定奉行)は旗本ポストですが、寺社奉行だけは大名が務めます。
職務は全国の神官・僧侶および寺社領の人民を治め、その訴訟を審理することです。
寺社奉行所というのがないため、自藩の藩邸を庁舎として訴訟をさばきます。
また旗本とちがって大名は家来を多く抱えているため、寺社奉行には町奉行の与力・同心のような配下がいません(調役のみ勘定所より出役)。
それで藩士の中の物頭や番頭などを大検使に任じて、日常的に寺社を巡視させ、犯罪事件はもとより、相撲や芝居興行などの取締りから神官・僧侶の素行調査も行なっていました。
これらに要する費用はすべて自己負担だったことから、藩主が寺社奉行になっている藩は経済的に苦しかったようです。
次のポストとなる大坂城代は、大坂城中に居住し、関西33国の総探題として治安維持ならびに訴訟を裁きました。
平時は大阪・堺の両町奉行を監督して、事変が起きれば関西33国の大名の総指揮をとることになります。
関西以西には外様の雄藩が多く譜代大名は少ないという土地柄なので、大坂城代は重要な役目をおびた職とされ、任に赴くときは将軍の謁をたまわり、軍司令官の証である黒印状と刀馬時服をさずけられました。
寺社奉行とは異なり、配下には城の警備に当たる定番(城番)、東西の町奉行、さらには金奉行(金銭の出納)や蔵奉行(米穀の出納)、具足奉行(城内備え付けの具足管理)など各種実働部隊がいたことに加え、大坂自体が裕福な町だったので、寺社奉行時代とは一転して経済的にはプラスになる職務でした。
この大坂城代までの職務を無事勤めあげた大名がいどむのが、最終関門の京都所司代です。
京都所司代は公家で苦労
京都所司代の職務について、江戸幕府の職制にくわしい大槇紫山はこのように述べています。(読みやすくするため現代仮名づかいに変え、一部漢字を平仮名にして、句読点を補なっています)
京都所司代は、徳川幕府の対朝廷政策のために特設した最重要な職であり、将軍直属の顕職として幕府有能の士を選ぶを怠らなかった。
溜間(たまりのま)詰で役料一万石を給せられたのは、老中さえ無給であったに比し、いわゆる機密費か交際費かの意味あいのあったこと察知すべく、三万石以上の譜代大名のみが任命された。
(中略)
職務としては、禁闕を守護し官用を弁理する外、京都町奉行および奈良伏見の両奉行を管理し、訴訟を聴き、兼ねて社寺の事を総掌したもので承応三年(1654)十一月に始めて与力十人、同心百人を隷属せしめ不慮の変に備え、明暦元年(1655)八月に至って与力四十人を増してこれを五十騎とした。
【大槇紫山『江戸時代の制度事典』歴史図書社版】
以前「殿席のランクと配置は?」で説明したように、京都所司代が詰める「溜の間」は臣下にあたえられた最高の席」といわれ、大老クラスの家柄の大名や老中OBなどいわば将軍の政策顧問たちが詰める部屋です。
この高い格式に加えて、役料1万石(現代の貨幣価値におきかえれば交際費10億円!)が支給されています。
いいかえれば、それだけたいへんな職務だったということです。
幕末の京都については、元旗本の田中安国が大正6年(1917)の史談会でこのような話をしていました。(読みやすくするため現代仮名づかいに変え、一部漢字を平仮名にして、句読点を補なっています)
その時分の公家様は神様気取りで、堂上方という者がおよそ百軒あまりもありましたもので、その百軒有余の堂上方を統御しなければならぬ。
いくら大名であっても吾妻夷(あずまえびす:関東の野蛮人)と言って軽蔑されて、なかなか統御することが出来ぬ。
それが京都の統御よろしきを得たくらいのひとであると、それから閣老に上って御老中となる。
【田中安国「慶応三年大阪警衛当時の実況」『史談会速記録 第290輯』】
公家は家禄が少なくて五摂家筆頭の近衛家でも2,800石しかなく、「30石公家」という言葉があったほど貧しかったのですが、武家にくらべると官位だけはやたらと高くなっていました。
そのため、この高い官位をふりかざして幕府の役人にいやがらせをすることがよくあったようです。
田中は上方にいたのでこのような状況をよく知っていたのでしょう。
なんにせよ、老中選抜システムをくぐり抜けるのもなかなか大変だったようです。
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