江戸時代の「暗記カード」
下座見カルタ
前回は大名行列の先頭を歩きながら向こうからやってくる行列の槍鞘を見て、だれの行列かをすばやく判断する「下座見」という役割を紹介しました。
ここでひとつ疑問がわきます。
それは、「下座見はどのようにして各大名の槍鞘をおぼえたのか?」です。
武鑑の各ページを繰りながらおぼえていったのでしょうか?
じつは、私たちが英単語を暗記するときにつくった「単語カード」と同じようなものがありました。
それが「下座見カルタ」です。
たとえば、このようなもの(タテ7.8cm ヨコ4.5cm)。
下座見カルタ(ブログ主蔵)
じつはこれ、以前に古美術商のカタログで見つけて、何かよくわからないまま買ってみたものです。
届いたものを見ると、カルタといいながら札が1種類しかありませんでした。
つまり「読み札」と「取り札」のセットではないのです。
これではカルタ取りはできません。
では神経衰弱のように遊んだのかと思えば、図柄は全部違っています。
いったい何に使ったものか、わからないままに放置していました。
暗記カード
その後『史談会速記録』で「下座見は槍印を知らねばならない」と語っているのを読んだときに、ふとこのカルタのことを思い出しました。
そこで、「下座見カルタというのは、新任の下座見役が使った暗記カードではないのか」とひらめいたのです。
つまり中学や高校の時に、英単語を覚えるために作ったアレです。
これは、ブログ主の仮説です。
というか、そもそも歴史学者は下座見カルタなど取り上げません。
ちなみに、ブログ主所有の下座見カルタはこういう状態です。
墨で黒く塗られた木箱に263枚の札が入っていて、箱の底とふたの裏に小さく「ホ」と書かれています。
これも推測ですが、どこかの大名家で使われて5セット以上あったものの5番目(イロハ順)かと思われます。
書かれている大名たちの名前からすると、慶応元年時点のものです。
武鑑にある大名の札が欠けていたり、おなじ札が2枚入っていたりするのは、ほかのセットと入りまじってしまったのでしょう。
インターネットで調べると、尾張徳川家の所蔵品にも「大名かるた」という名称の下座見カルタが伝わっており、次のように説明されています。
表に大名の名前、裏には家紋と大名行列の指標となる毛槍(けやり)・長刀(なぎなた)・立傘(たてがさ)の諸道具を描く。
裏を広げておいて、大名の名乗(なのり)を読み上げ、合う札を取ったのであろう。
「下座見(げざみ)かるた」とも呼ばれ、登城する大名の答礼を判断する下座見役が、諸道具で大名を識別する訓練に役立った。
札に書かれた大名の名乗から、天保年間(1830~44)の頃に製作されたことがわかる。
説明には「登城する大名の答礼を判断する下座見役が、諸道具で大名を識別する訓練」に使ったとされていますが、名古屋城に登城する大名はいませんから、門番役の下座見ではなく、江戸城に登城する行列の先頭に立つ下座見が使ったものでしょう。
「大名の名乗を読み上げ」とありますが、そうであれば「読み札」が必要です。
この札を読み札に使ってしまえば、場には「合う札」がなくなります。
これはやはり暗記カードと考えるべきでしょう。
彩色も美しく見事な仕上がりで、さすが御三家と言いたくなります。
カルタ取り
国立歴史民俗博物館のホームページにある「歴史民俗資料調査カード(民俗)」の「大名槍印かるた 下座見かるたともいう 」という項目には、兵庫県芦屋市にある滴翠美術館(カルタのコレクションがあります)の所有する下座見カルタが紹介されています。
大名槍印かるた(国立民俗博物館ホームページ)
このカルタの説明は以下のとおりです。
製作年代:江戸・天保期
製作法・材料:紙地 肉筆 (表)白地素地 (裏)金箔粗散し
出札は姓名・城地・立道具の種類、説明を書いた字札。地札は表の上部に家紋、下部に立道具を簡単な彩色入で描いた絵札。出札同様の説明を書入れ、裏に姓名城地を書いてある。
こちらは字札(出札)と絵札(地札)がセットになっているので、カルタとりに使われた可能性がありますね。
ちなみに、大岡越前守は慶応2年の武鑑ではこのように記載されています。
槍の横にはカルタと同様に「黒らしや 上ギン 三角」と書かれています。
『新版改正慶応武鑑』(大岡越前守部分、国立公文書館蔵)
幼少の家茂将軍は下座見カルタで遊んだ
調べていたらじっさいにカルタとして使用した話もありました。
これは旧幕臣の戸川安宅(とがわ やすいえ)が書いたもので、14代将軍家茂がまだ紀州藩主だったころのエピソードです。(読みやすくするため、一部漢字を仮名に改め、句読点をおぎなっています。原文はこちら)
高橋五助は公の御補導掛りなり。
ある時、同藩臣堀内信に大名カルタというを認(したた)めよと申されしゆえ、半年ばかりも毎月朔日と十五日(幕府の式日)に桔梗御門と桜田御門の下馬先に通い、二百六十有余の大名の槍、長刀、道具の実際を正し、領知高・領国・爵位官名を認めたるを差し上げしに、暫時(ざんじ:わずかのま)に御記憶になり、領知高国郡を半分読み上ぐるや否や速やかに取り給いしとぞ。
この時公は六七歳ならんという。
【「逸事逸話」戸川安宅『幕末小史』春陽堂】
家茂はわずか4歳で家督を継ぎ、6歳で元服して慶福(よしとみ)を名乗っています。
6、7歳の時の話と書いているので、元服のころでしょうか。
慶福から大名カルタ作成を命じられた家臣の堀内信が、大名の登城日のつど江戸城に通い、実際に道具の形を確認してカルタを作成しました。
槍・長刀の絵と石高・領国・官位が書かれた札を作って渡したら、すぐに覚えてしまい、石高と領国を半分読み上げたところですばやく札を取ったとあります。
おそらくは滴翠美術館のカルタのように、字札と絵札が分かれている形式だったのでしょう。
家茂将軍の記憶力の良さを示すエピソードとして書かれたものですが、ブログ主としてはどんなカルタだったのかが気になるところです。
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