上野の西郷銅像はなぜあの姿なのか

顔はそっくり

 西郷隆盛は写真ぎらいだったことで有名です。

そのため西郷の写真は存在せず、姿形は絵と彫刻でしか残っていません。

西郷の顔については、明治4年(1871)に渡米してハーバード大学に学び、日露戦争時はアメリカに派遣されて外交工作にあたった金子堅太郎が、西郷の顔は上野の銅像そっくりだったと語っていました。(読みやすくするために現代仮名づかいに変えて、句読点をおぎなっています。原文はこちら

私の知っている時は西郷隆盛は神田橋にいた。
西郷の家に書生をしている友達を尋ねて行くと、
「君は西郷を見た事があるか」というので、
「ない」と答えると、
友達は「あれから来るのが西郷さんじゃ」と指さしたのを窓からのぞくと
一人の男が若党を連れて門からブラブラやって来た。
木綿の黒い羽織を着て刀を差し小倉のような木綿袴をはいて、しかも冷めし草履を引っかけておる。
顔かたちは上野の銅像そっくりの印象が残っておる。(金子堅太郎子談)
【「冷めし草履に木綿袴の西郷隆盛」東京日日新聞社会部編『戊辰物語』万里閣書房】

西郷の顔は上野の銅像をみればいいようです。

ところで、この像の除幕式に呼ばれた西郷夫人が、ウチの人はこんなだらしない姿で人前に出ることはなかったという意味のことを言った話は有名ですが、なぜこんな姿にしたのでしょうか。

上野公園の西郷隆盛像(作者は高村光雲)


着流し姿の理由

このようにラフな姿にした理由について、西郷銅像をつくった彫刻家高村光雲の三男高村豊周(とよちか)は、当時の事をふりかえってこのように述べています。

西郷さんの銅像は、はじめ陸軍大将の正装で原型をつくった。
銅像の建設委員の人たちがそういう考えでいたらしい。
父たちは美術学校に西郷さんの軍服だとか、サーベルだとか、帽子などを取りよせて、陸軍大将の正装の雛形を作った。
ところが、ある日、建設委員がきて「この銅像を少し待ってくれ」という。
どういうことなのだろうかと父は気にしておった。
そのうち事情がわかったのだが、当時誰だか知らないが、その時の重臣から故障が出た。
銅像が陸軍大将の正装でつくられるということが自然と聞こえたとみえて、それはまずいというのである。
西郷さんという人は偉い人だけれども、とに角、賊軍の大将だ。
錦の御旗に手むかった人である。
そういう人が陸軍大将の正装をしていることはおだやかでない、おかしいのではないか、銅像をたてることはよいとして、軍服を着ているところは改めなければいけないというのである。
それでなんとか直してもらいたいということだった。
父はもうすでに雛形が出来上がってしまっていたのだけれども、上の方からそのような話が出たのでは、このまま仕事を進める訳にはゆくまいということで、急に模様変えということになった。
それではどうしたらよかろうか、いろいろ相談し、案を練り直した。
その結果、全く西郷さんが官を退いて郷里に帰り、無官の人になった時ならばよいだろうというので、改めて、野に帰って静かに平和に暮している姿にしようということになった。
それなら西郷さんの普段の姿のどういうところがよいか。
西郷さんの日常生活を調べると、西郷さんは兎狩りが大変好きで、暇をみては山野を跋渉して兎狩りをしていることがわかった。
その姿がよかろうということで、現在上野にたっているものになったのだという。
「西郷さんという人は非常に几帳面な人であんな格好はしていない」という非難をした人がいたそうだが、あの筒っぽの着物をきて、兵児帯をしめている、ひやめし草履をはき、犬をつれて歩いてる、あれはあの通りであったそうだ。
西郷従道、西郷さんの弟さんで陸軍大臣をつとめた人、それから西郷さんの親友だった樺山海軍大将、こういう人たちが、あの形は如何にも西郷さんをあらわすのに適当な姿だといって太鼓判をおしてくれたのだから、あれは間違いないと思うと父は話をしていた。
【高村豊周「あとがき」 高村光雲著『木彫七十年』中央公論美術出版】

当初は軍服姿だったのが、途中で変更になったようです。

ちなみに、金子堅太郎も言及していた「ひやめし草履」というのは、鼻緒も台もワラでできた粗末な草履のことで、西郷隆盛のように身分の高い人物がそんな粗末な草履をはいていたのでおどろいたのでしょう。


なぜ軍服姿がダメだったのか

高村光雲の長男で、親譲りの彫刻だけでなく詩人としても有名な高村光太郎も、上野の西郷像についてこのように述べています。

西郷さんの像の方は(美術)学校の庭の運動場の所に小屋を拵え、木型を多勢で作った。
私は小学校の往還りに彼処を通るので、始終立寄って見ていた。
あの像は、南洲を知っているという顕官が沢山いるので、いろんな人が見に来て皆自分が接した南洲の風貌を主張したらしい。
伊藤(博文:原注)さんなどは陸軍大将の服装がいいと言ったが、海軍大臣をしていた樺山さんは、鹿児島に帰って狩をしているところがいい、南洲の真骨頂はそういう所にあるという意見を頑張って曲げないので結局そこに落着いた。
南洲の腰に差してあるのは獲物を獲る罠である。
樺山さんが彼処で大きな声で怒鳴りながら指図していたのを覚えている。
【「随筆 回想録」『高村光太郎選集 第5巻』春秋社】

たしかに、西郷さんの帯の結び目は背中にありますから、写真で見ると向って右の帯からぶら下がっているたくさんの紐のようなものはウサギをとる罠で、まさにウサギ狩りの姿です。

しかし、なぜ上野公園の西郷像は軍服ではいけなかったのか?

国土交通省OBで、地形という観点から歴史をとらえる作家の竹村公太郎さんは、上野公園一帯は戊辰戦争の激戦地だったからだと説明します。

西郷隆盛と勝海舟の交渉によって江戸城は無血開城されましたが、それを不満とする旗本らで構成された彰義隊は、上野の寛永寺にこもって薩長を中心とした新政府軍と戦い、敗れました。

現在の上野公園一帯は、多数の旧幕臣の血が流れた怨念の地でもあったのです。

それゆえに、戦を象徴する軍服ではなく、故郷でのんびりとすごす平和な姿がふさわしかった、というのが竹村さんの見解です。

伊藤博文の主張した陸軍大将の姿では、西郷への慰霊にならない。
この山王台は薩摩藩兵士だけでなく、旧幕臣の彰義隊の慰霊の場でもある。
新政府と旧幕臣たちの戦いや確執の歴史を超越し、明治維新で逝った多くの人々への慰霊には、軍服姿の西郷隆盛ではなく、野に遊ぶ西郷隆盛が必要だった。
【竹村公太郎『日本史の謎は「地形」で解ける(文明・文化篇)』PHP文庫】


もう2体の西郷銅像

ところで、西郷隆盛の地元鹿児島には上野よりもさらに大きな西郷銅像が2体あります。

ひとつめは島津斉彬を祭神とする鹿児島市の照國神社の近くにある銅像で、主君を守るのにふさわしい軍服姿の西郷さん。

もうひとつは鹿児島空港の前にある西郷公園の銅像で、こちらは羽織袴姿です。


左:鹿児島市内照國神社近くにある軍服姿の西郷像(作者は安藤照)
右:霧島市の西郷公園にある羽織袴姿の西郷像(作者は古賀忠雄)


軍服姿の像は西郷没後50年を記念して、昭和3年に「南洲神社五十年祭奉賛会」総裁の東郷平八郎から依頼を受けた安藤照(あんどう てる:渋谷ハチ公像の作者)が、9年近くの歳月をかけて製作し、昭和12年5月23日に除幕式が行なわれました。

没後50年にしてようやく軍人の服装になった西郷さんは、身長5.3mで上野公園の銅像(3.7m)より1.6m高く、像の前は鹿児島市有数の写真スポットになっています。

もう一体の西郷公園の像ですが、こちらの来歴は複雑で、もともとは関西在住の鹿児島県出身者有志により西郷没後100年の記念事業として、昭和52年(1977)に京都市に建立する予定で制作されていました。

作者は佐賀県出身の彫刻家古賀忠雄です。

しかし世話役で発注依頼者の迫水久常(さこみず ひさつね)参議院議員(先祖は島津家家臣)が急死したことから、計画は挫折します。

さらに作者の古賀忠雄も昭和54年に亡くなったため、像は部分鋳造されたところで制作中止となり、富山県高岡市の鋳造会社の倉庫に眠っていました。

昭和62年6月、鹿児島の地方紙南日本新聞に「富山の倉庫に眠る西郷どんの巨大立像」として、この像がとりあげられ、作者の長男で彫刻家の古賀晟(あきら)氏の「西郷像はオヤジが命をかけた代表作。なんとか世に出したい。できるならゆかりの鹿児島に建ててほしい」という声も添えられていました。

この記事が掲載されると鹿児島への里帰りを望む声が県内各地に上がりますが、空の玄関口鹿児島空港の正面に建立したいと、空港のある「溝辺町商工立志会」と溝辺町(現在は霧島市)町長らが古賀晟氏に直談判して快諾をえます。

そして建立のための募金運動を展開、1億円あまりの募金を集めて、昭和63年8月に建立されました。

銅像のある西郷公園は、銅像建立にあわせて整備されたものです(正式オープンは平成2年)。

両腕を組み鹿児島空港の方を見つめて立っているこの羽織袴姿の西郷さんは身長10.5mで、人物像としては日本最大の銅像です。

軍服、羽織袴、着流しと、姿も大きさも異なる西郷さんの像ですが、どこにあっても人気者であることに違いはないようです。(写真はすべてブログ主撮影)


幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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