江戸のキャリア官僚
幕府は将軍家の家政
江戸時代の日本は統一国家ではなく、それぞれの藩が自領内の行政権や警察権を保有するいわば連邦国家でした。
各藩はそれぞれが国家であり、行政組織として「藩政府」がおかれていました。
それら260あまりの藩を統括していたのが徳川幕府ですが、これは将軍家の家政つまり「将軍家のプライベートカンパニー」です。
したがって社員(構成員)は直参(じきさん:将軍直属の家臣)に限られます。
つまり譜代大名(1万石以上)、旗本(1万石未満・御目見得以上=将軍に拝謁できる)、御家人(蔵米支給、拝謁できない)だけが幕府の構成員です。
幕府の役職を現代の会社に当てはめると下の図のようなイメージで、役員は譜代大名、上級武士である旗本が管理職、下級武士で多くは100俵以下という御家人はほぼ一生平社員です。
御三家や親藩といった将軍家の親戚であっても幕府の構成員とはなれません、企業でいえばグループ会社というイメージで、親会社に口出しできません。
島津家のような外様大名はさしずめライバル企業といったところでしょう、幕政への関与などもってのほかです。
幕府官僚の出世街道
旗本・御家人にかぎられる幕府官僚ですが、現代の霞ヶ関官僚以上にきびしい区分がありました。
現代の国家公務員には「キャリア官僚」と「ノンキャリア官僚」のふたつの区分があり、キャリア官僚は難関の「国家公務員総合職試験」に、ノンキャリア官僚はそれより難易度が低い「国家公務員一般職試験」にそれぞれ合格して、中央省庁に勤務している人です。
おなじ官僚といっても、昇進のスピードと到達できる地位には大きな差があります。
では江戸時代はどうだったのでしょうか。
明治に旧幕臣たちが寄稿した雑誌『旧幕府』第1巻第1号に、長崎海軍伝習所取締や、咸臨丸が渡米したときの司令官をつとめた木村芥舟(かいしゅう)がこのような記事を寄せています。(読みやすくするために句読点をおぎなっています)
元来幕府官吏登庸の法は二途に出づ。
二途とは番士と小吏なり。
番士は多く武人にして、小吏は刀筆の俗吏なり。武人は目付に進むを以て栄となし、俗吏は勘定吟味役に登るを門戸とす。
【木村芥舟「旧幕監察の動向」『旧幕府 第1巻第1号』】
木村によれば幕府の官吏には「番士」と「小吏」の2種類があって、番士(番方ともいう)は大番(主力軍)、書院番・小姓組(将軍の親衛隊)などの武官で、小吏(役方ともいう)は刀筆の俗吏つまり事務職です。
石高が大きく家柄のよい上級旗本が番士、石高の小さい下級旗本と御家人は小吏にあたります。
つまり試験の種類ではなく、家柄ではじめから区別されているのです。
そうしてキャリア官僚にあたる番士は「目付(めつけ)」のポストにつくことが出世の糸口であり、ノンキャリア官僚に相当する小吏は勘定吟味役が登竜門となるというのです。
目付はキャリア官僚のエリート集団
では目付とはどういう職務だったのでしょうか。
明治の中ごろに東京帝大の学者たちが旧幕臣に往時の実情をヒアリングした「旧事諮問会」において、旧幕府で目付・大目付・江戸町奉行などを歴任した山口直毅(なおき)が目付の職務についてこのような発言をしています。
(問)御目付の職権の大体はどのようなものでありますか。
(答)御目付の職権の大体は、諸役人すべての取締りです。それに評定所の公事訴訟に限っては目付が立会わなければなりませぬ。其他、何役のことにも掛り合います。
つまり役人の非違を弾正(だんじょう)するのであります。(問)内外を論ぜずですか。
(答)左様です。しかも金銭出納の方の御勝手に付属して(宝暦五年以降)、古役の御目付が御勝手掛りとして関係いたしますけれども、奥向きのことには構いませぬ。
【山口泉処「目付・町奉行・外国奉行の話」旧東京帝国大学史談会編『旧事諮問録』青蛙房】
目付の職務は「役人の非違を弾正する」つまり不正をただすことですが、それを名目にしてほとんどの政務に口出しすることができました。
奥向きとは大奥を含む将軍の私生活のことですから、それ以外の公的な部分はすべて目付の職務範囲です。
江戸文化の権威である三田村鳶魚は、目付について
日常の職務はきわめて広範囲にわたり、規則・礼式の監察や諸士への布令、用部屋から廻されて来る願書・伺書・建議書への意見具申などさまざまである。
殿中の巡視、評定所への列席も重要勤務であったし、また火事があれば現場へ出勤して消防諸役の活動を監視するというふうに、ほとんどあらゆる政務に干渉したものである。
【稲垣史生編『三田村鳶魚 江戸武家事典』青蛙房 太字はブログ主】
と述べているように、行政のほとんどすべてに関与していたのですが、定員は10名でした。
5,000人以上いた旗本の中で、わずか10人しかいない目付は、まさにキャリア官僚におけるエリート集団です。
10人の目付だけで全役人の監察は不可能ですから、とうぜんながら手足となって動く部下がいました。
『旧事諮問録』にはこういうやりとりも残されています。
(問)目付の下にはどういう役がありますか。
(答)御徒士(おかち)目付、御小人(おこびと)目付のようなものであります。
ほかにも目付支配は沢山ありました。(問)その御徒士目付、御小人目付などが、実際の目付をいたすのでありますか。
(答)まず左様であります。
いかなることの探偵をいたさせますにも、従士目付に申付けます。
職掌上、政府部内のことは勿論でありますが、民間のことでも何でも心付きたることはすべて申して呉れたものであります。
【小俣景徳・竹本要斉「評定所の話」旧東京帝国大学史談会編『旧事諮問録』青蛙房】
じっさいに探索をおこなうのは目付配下の御徒士目付や御小人目付で、本来の対象となる役人だけでなく民間人についても調査していたようです。
このあたりは、「強制的権限をもって犯罪捜査に準ずる方法で調査」できる国税庁を配下に持つ財務省を連想してしまいます。(「 」内は国税庁ホームページより)
将軍に直接報告できる
目付の強みはレポートラインにもありました。
目付は建前上は旗本以下の役人を管轄する若年寄の下になりますが、報告先は若年寄ではなく、その上役である老中でした。
さらに、案件によっては(たとえば老中の不正を発見したとき)、直接将軍に言上することができました。
旧事諮問会ではこのように語られています。
(問)目付が何か気がついたことがあって意見を持ち出す時は、誰の処へ持ち出しますか。
(答)目付は若年寄の支配でありますけれども、老中へ直接持ち出すのであります。
事によると将軍家へ直に申上げることがありました。他の役人は、将軍家へは滅多に申上げることなどは出来ませぬが、目付には出来たのであります。
【小俣景徳・竹本要斉「評定所の話」旧東京帝国大学史談会編『旧事諮問録』青蛙房】
前々回の「老中も部下次第?」で、老中を動かしていたのは奥右筆だったという話をしましたが、奥右筆は役方つまりノンキャリア官僚です。
江戸幕府において肩で風を切って歩いていたのは、キャリア官僚のエリート集団である目付たちでした。
次回は目付が本当に「肩で風を切って歩いていた」様子をご紹介します。
0コメント