国の豊かさとは
税金取り過ぎ!
今、日本では国が税金(や社会保険料)を取り過ぎているのではないかということに国民が気づきはじめて、SNSなどで批難の声が高まっているようです。
江戸時代の年貢は四公六民ですから現代に置き換えると税率40%でしたが、財務省の発表している「国民負担率」(租税負担率と社会保障負担率の合計)は、実績が確定している令和4年度で48.4%になっています。
生活する上では消費税やガソリン税などさまざまな税金がかかってきますから、じっさいの負担率は軽く5割を超えているでしょう。
さすがにこれでは国民が怒るのも無理はありません。
最近読んだ本にこんなことが書かれていました。
古今東西どんな国家でも官吏は増税を大使命だと勘違いしているかのように振る舞う。
もちろん彼らは本当に愚かなわけではない。
「自分たちの使命は増税ではなく、財政健全化だ」と堂々と主張する。だが、財政健全化もまた国家の目的にはなりえない。
財政健全化は国民の幸せを実現するための手段のひとつに過ぎない。
仮に国民を重税で苦しめた挙句に財政健全化に成功するとして、そんな国を望む国民はいないだろう。
そんな国を作り上げても、内乱と革命によって、財政健全化した国そのものがなくなる。
結局そんな国では当の官吏をふくめ誰も幸せにならない。
【岩尾俊平『世界は経営でできている』 講談社現代新書】
国家の目的は「国民を幸せにすること」で、税金はそれを実現するための費用をまかなう手段に過ぎないのですが、現在の日本では本来の目的が忘れられて、徴税という「手段」が「目的」に変わってしまったかのようです。
と書いてきましたが、ここまでが導入部。
豊かな国とは国庫ではなく国民が豊かな国のこと
税金徴収の窓口は税務署ですが、その元締めは財務省(主税局)です。
江戸時代の薩摩藩でいえば、「蔵方の役人」が財務省の官僚にあたります。
薩摩藩においても蔵方の役人は人々の生活を考えず、年貢をたくさん取り立てて藩庫の金を増やすことが国を富ませることだと勘違いしていたようでした。
藩主となった島津斉彬は、この勘違いを手きびしく指摘しています。
島津斉彬肖像(公爵島津家『記念写真帖』より)
市来四郎が編修した『島津斉彬言行録』には、このような話が収録されています。(わかりやすくするため現代文になおしています、原文はこちら)
古人が言った、「民富めば君富む」という言葉は、国主たる人が一日も忘れるべからざる言葉である。
蔵方に一文の貯えがなくとも、国中の者が生計を豊かにして各家業を楽しむときは、藩に臨時の入り用があっても、ただちに拠出してくれるはずだ。
今どきは公儀をはじめ諸大名においても、この心得をもって政治を行っていないだろう。
役人どもは財政の都合のみを考え、準備金がこれだけあれば富国だと心得違いをして、本当の経済に心を用いる者がいない。
私は領民の末端までも豊かにすることを唯一の目標にしている。
【「民富メバ君富ムノ言ハ、国主タル人一日モ忘ルベカラザル格言ナリトノ御話(江夏ヨリ承ル」『島津斉彬言行録』岩波文庫】
岩尾先生が書いていた「国民の幸せ」とは人々の生活が豊かで安心して暮らせることで、国の政治をつかさどる者はそれを目標にしなければなりません。
しかし財政を担当する官僚たちは、国民の懐具合ではなく国庫が豊かであることを最優先にしてきました。
幕末の薩摩藩は島津斉彬という最高の名君にめぐまれましたが、現代の日本には斉彬のようなリーダーはおらず、蔵方の役人に支配されているようです。
少しでも良いリーダーを求めて、次の選挙はかならず投票に行きましょう。
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