紀州兵はもっと弱かった

石州口の戦い

  『新聞薈叢(しんぶんかいそう)』をご存じですか?

幕末に、幕府の洋学研究所である「開成所」教授を務めた柳河春三(やながわ しゅんさん)ら開成所関係者が、自分たちの集めた情報をまとめたものです。

現代風にいえば「幕府ニュース集」で、当時は対外秘とされていました。

現在は書籍になっていて古書店で入手可能ですし、国立国会図書館の個人送信でも読むことができます。

内容は慶応元年(1865)からの出来事で、第2次長州戦争(1866)での幕府軍の内部情報も記録されています。

その中に「福山藩某書翰抄書」というのがあって、福山藩が戦った「石州口」での戦いの様子を伝えているのですが、興味深い部分がいくつかありました。

鳥羽伏見の旗本兵以上に弱かった軍隊の話です。

それをご紹介する前に、基礎知識として福山藩と石州口の説明を少々。

福山藩(11万石)は備後国南部(現在の広島県東部)に位置し、当時は第9代藩主阿部正方の治世(島津斉彬の盟友阿部正弘は第7代藩主)になります。

幕府から福山藩に割り当てられた攻め口は「石州口」で、旧国名の石見(いわみ)つまり現在の島根県西部から長州に攻め込むルートでした。

ちなみに石見は、西の長州側から見ると津和野藩、浜田藩、天領の大森銀山(大森代官領)と並び、その先は出雲国の松江藩となります(以上が現在の島根県)。

東京大学史料編纂所の前身である維新史料編纂会が出した『維新史 第四巻』の「戦況」「石州口方面」では最初にこう書かれています。

石州口は、長州藩と津和野藩の境界方面であり、津和野藩の東には浜田藩が連なっている。
此の方面の征長軍は、浜田・福山・津和野・紀州の諸藩兵より成っていた。
長州軍は南園隊を主力とし、精英隊及び清末の諸隊が之に加わり、参謀大村益次郎・直目付杉孫七郎が作戦を主導した。

【「第二回征長の役 第三節戦況」維新史料編纂会編修『維新史 第四巻』吉川弘文館】

石州口の幕府軍は藩主徳川茂承が征長総督をつとめている紀州藩と、地元の津和野・浜田の両藩、そして福山藩です。

一方の長州軍は参謀大村益次郎が指揮する南園隊・精英隊などの部隊でした。

長州と藩境を接するのは津和野藩ですが、この藩は戦意がなく城にこもって衝突を回避したため、長州軍は津和野を素通りして無傷で浜田藩領に到達します。


紀州兵戦わずに敗走

戦いが行われたのは慶応2年(1866)6月で、「福山藩某書翰抄書」にはこのように書かれています。(読みやすくするため、現代表記に改めて一部を読み下し文または仮名にし、句読点と中点をおぎなっています)

十三日・十五日・十六日・十七日の戦争、厲(はげ)しきことはこれなし。
何分紀州ご人数、極く臆病にて諸家立腹。
浜田領にマヤ山と申すは、登り一里半もこれあり、要害宜しく、この山敵に取られ候ては難儀につき防御肝要と申し候はば、山上に浜田(藩)・御家(福山藩)、半途(中腹)に雲州(松江藩)、下に紀州ご人数六七千にて堅め候ところ、

敵の声を聞き、一発も致さず紀州人数一里(4km)ほど逃出し候につき、雲州とてもかなわずと存じ、また逃げ候につき、小勢の両家にては大山の事とてもかなわずと、浜田へ打合せ、右山を下り候由。

ほどなく長人押し来たり、たちまち右の山を乗っ取り候よし。

【会訳社編、明治文化研究会校訂『新聞薈叢』 名著刊行会 1968年】

戦いの要衝となるマヤ山でしたが、山裾に陣取っていた6,000人~7,000人の紀州兵は長州軍の声を聞いただけで怯えて全員逃げ出してしまい、中腹を固めていた雲州兵も紀州兵がいなくなったのでは戦えないとしてこれも逃げてしまいました。

そのため山頂にいた福井藩兵と浜田藩兵は相談し、この少数では長州の攻撃を防げないと判断して陣を引き払いました。

ほどなく長州兵が到着し、無人となった要衝を占拠したというわけです。

佐山咲平 著 ・木俣清史 絵『大村益次郎』挿絵(石州口の戦 長州兵渡河突撃)

(国立国会図書館デジタルコレクション)


長州の参謀はあの大村益次郎ですが当時はまだ無名ですから、幕府軍が大村を特別に恐れる理由はありません。

征長軍総督の直臣である紀州兵が6,000人以上もいながら、長州軍の声を聞いただけで一戦もせずに4キロも逃げ出したため、他藩も巻き込まれて、戦わずして全軍退却というぶざまなことになってしまいました。

「諸家立腹」したのは無理もありません。


紀州兵には何も売るな!

やすやすと浜田領に入った長州軍は、領内の陣地を次々と攻め落として浜田城に迫りました。

その原因となった腰抜けの紀州兵に怒りがおさまらないのは浜田藩の人々です。

「福山藩某書翰抄書」の引用を続けます。(読みやすくするため、カギ括弧もおぎなっています)

何分浜田始め紀州にはあきれ候につき、紀州の人数には何の品たりとも買い候事(買わせること)相成らず、湯水なりとも無用に申す事ゆえ、もちろん宿も借り申さず、依りて始終野陣にて食物に差し支え困り候よし。

十八日益田より引き取り候者紀州人とあとになり前になり尾道と府中とへ別れ候までいっしょに相成り、或いは茶店にて御家(福山藩)の人々牡丹餅を食い居り候ところへ紀(州)人参り、「くれ候」様申し候えども「之れ無き」由答え、「茶にてもくれ候」様申し候えども「之れ無き」由答え候につき、殊の外困り候様子にて無心いたし候えども、「福山様人数へあげ候御品に候間、あげられず」と答え候よし。

佐和宗太郎見かね二つほど遣わし候ところ、殊の外歓び候よし、佐和話す。

【前掲『新聞薈叢』】

紀州兵が戦わないために長州に領地をうばわれた浜田藩は、領民に「紀州人にはどんな品物も売るな!湯水もダメだ!」という指令を出しました。

当然、宿の提供も拒みますから、紀州軍は屋根の下で寝ることもできず、食べ物にも困るありさまとなりました。

18日に益田から引きあげた福山藩士の話では、途中で紀州人と一緒になったが道中の茶店で福山藩士がぼたもちを食べているところで、紀州人が「私にもくれ」と言ったら「ありません」と断られ、「では、お茶だけでも」と言っても「ありません」とまた断られていたそうです。

困り果てた紀州人が、「なんとかならないか」と頼み込んでも、「福山藩の方たちに差し上げる分なので、渡せません」と拒絶されました。

居合わせた福山藩士の佐和宗太郎が見かねて、その紀州人にぼたもちを二つ渡したらたいへん喜んだという話です。

紀州兵が浜田の領民に毛嫌いされていた様子がよく分かります。

しかし紀州兵を嫌ったのは浜田領民だけではありませんでした。

「福山藩某書翰抄書」には、こんなことも書かれています。

戦争中も右へ逃げ左へ逃げ、とかく諸藩の邪魔になり候ゆえ、諸隊に嫌われ、諸隊の陣近くへは置き申さずのよし。
【前掲『新聞薈叢』】

紀州兵は戦争中も戦わずに右往左往して逃げまくるだけなので、戦っている諸藩の足手まといになることから、他藩からきらわれて、どこの藩も紀州軍が自陣営の近くに布陣することを拒んだとあります。

いやはやひどい嫌われようで、征長総督の面目丸つぶれです。


浜田藩、領地を喪失

長州に攻め入るはずが逆に長州軍に攻め込まれて、浜田藩は長州軍に占領されてしまいました。

窮地におちいった浜田藩は藩主松平 武聰(たけあきら)の兄弟である鳥取・岡山の両藩(三人とも水戸斉昭の息子)に援兵を求めますが、断られたため長州と講和交渉に入ります。

しかし交渉の途中で、病床にあった藩主と家族が城を出て松江に向ったと知った藩士たちは交渉を打ち切り、城を自焼して撤退し、浜田藩領を出て藩の飛び地である美作鶴田(みまさかたづた:岡山県津山市)に向って落ちのびました。

そのときの浜田藩士たちの様子を、福山藩士はこう伝えています。

いずれも力を落とし、涙を流し、あわれなる姿を見候えば、自然一統涙を催し候由。

【前掲『新聞薈叢』】

ともに戦った浜田藩士が領地を失って落ちのびていく様子を見て、涙を流さずにはいられなかったのでしょう。

浜田藩敗北を知り、隣接する大森代官も逃亡したため、浜田藩領と大森代官領は長州藩に占領されてしまいました。

長州に攻め入って降伏させるはずが、まったく逆の結果になったのです。

紀州軍の陣夫にかり出された百姓は、浜田の町の声をこう伝えています。

「夫に付、紀伊の弱兵なにしえ来たやと、口々日々悪口の由」【宮地正人『幕末維新変革史 下』岩波書店】

戦わずに逃げまくっただけの紀州兵を、「紀州の弱兵、いったい何をしに来たのか!」と人々が口々に罵ったのもわかる気がします。

最後に紀州藩のため弁明しておくと、藩主茂承は幕府軍の主戦場となった芸州口(広島県)の指揮をとっており、ここで戦った紀州新宮藩兵は洋式訓練を受けた精鋭部隊だったため、長州軍も苦戦したとの記録が残っています。


幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

0コメント

  • 1000 / 1000