連帯責任で刃傷沙汰を止めさせる
薩摩人はすぐケンカして死人が出る
薩摩藩の8代藩主重豪は、粗野な国風を変えようとしてさまざまなことを行なっています。
前回は身だしなみや振る舞いを都会風にしようとして失敗した話でしたが、成功したと思われるケースもあります。
それは「すぐに刃傷沙汰」という気風を変えたことです。
藩内に風俗矯正の布告を出したのは安永元年(1772)でした。
それから10年後の天明2年(1782)8月に薩摩を訪れた医師で旅行家の橘南谿(たちばな なんけい)が、日本各地を巡歴したときの記録『東西遊記』の中にこのような記述があります。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)
(薩摩は)勇気をたっとびて臆病を笑うゆえに、武士、町人、百姓ともに喧嘩はなはだ多く、切り死する者一月の中に数十人なり。
天明の頃は太守(重豪)人徳をもっぱらにし給うゆえに、小事に喧嘩を起こし一命を落とす者多きをはなはだ憎ませ給い、私の喧嘩を起こし命を軽ろんずるは不忠第一なれば、これ以後は喧嘩を起こし刃傷に及ぶ事はきっと致すまじき由、きびしく仰せ出されしにより、近年大かた静まりしよし聞こえしかど、予がわずかに百日余りの逗留の間にも切腹に及びし者六人までぞ有りし。
【「九〇 義烈(鹿児島)」橘南谿著 宗政五十緒校注『東西遊記2』平凡社東洋文庫】
薩摩の人びとは勇気がある者を尊敬して臆病者をあざ笑うので、武士・町人・百姓の身分にかかわらず、すぐにケンカになって、それが斬り合いに発展して、斬り死にする者が月に数十人いたそうです。
念のために付け加えておくと、南谿は「武士、町人、百姓とも」と書いていますが、薩摩は武士が人口比で他国の5倍くらいいたために貧しい武士が多く(武士の収入は年貢なので藩の年貢を武士の数で割ったものが平均年収、武士比率が高いと平均年収は少なくなる)、ふだんは町人や百姓のようなことをやっている武士もたくさんいました。
とうぜん身なりもそれに近い粗末なものだったでしょうから、南谿が町人や百姓だと思ったのは身分の低い武士だった可能性が大です。
重豪が私闘をきびしく禁じた結果、南谿が鹿児島を訪れたころには刃傷沙汰がめっきり減っていたとはいえ、百日あまり滞在している中でケンカが原因で(相手を殺したために)切腹した者が6人いたと書いています※。
※橘南谿が書いたこの『東西遊記』については、文政から天保にかけて(1818~1843)薩摩を6回訪れた大阪の商人高木善助が著書『薩陽往返記事』の中で「南谿子の西遊記は、文章奇に過ぎて実を失う事多し」と書いているように、受けようとしてオーバーに言うクセがあるので、少し割り引いて見る方がよさそうですが、まったくのデタラメではないでしょう。
毛利正直『大石兵六夢物語』挿絵(国立国会図書館)
居合わせた者の連帯責任にして刃傷沙汰をなくす
藩主が「きびしく仰せ出され」たので刃傷沙汰が減ったとはいえ、なくなったわけではありません。
それで重豪は新たなルールを決めました。
なんと、刃傷の場に居合わせた者は全員切腹を命じると定めたのです。
これは天保時代前後における著名人物の逸話を集めた『想古録』という本に収められているエピソードです。
文中「栄翁」というのは重豪の隠居後の名前です。
重豪は天明7年(1787)に隠居し、寛政12年(1800)に名を「栄翁」に改めています。
とすればこの指示は寛政12年から重豪が89歳で亡くなる天保4年(1833)までの間に出されたのでしょう。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえています)
薩藩にては戦国時代の遺風依然として存在し、いささかの無礼あれば必ず刃傷に及ぶの習慣ありし。
しかるにその死生を決するに至るは、多くは傍観者の尻押しに出で、これが為めに青年壮士の空しく決闘に斃(たお)るるもの、その数少なからざりしかば、栄翁これを憂え、新令を発して、自今双士刃傷の場所に居合わせたるものは、その人数の十人たり二十人たるに拘わらず、すべて両士の死に殉じてその場に切腹せしむべしとの制を定められぬ。
これよりして人々刃傷の場に行逢わせたるときは、懇々説諭し双方を止め、決闘殆どその迹(あと)を絶たんとするに至りけるとぞ。老隠居の政略隈々(くまぐま:すみずみに)見るべきものあり。(宮内清之進)
【「八六二 栄翁公の新法、決闘を抑止す」山田三川著 小出昌洋編『想古録2』平凡社東洋文庫】
語り手の宮内清之進は、薩摩出身で日清・日露の両戦争を戦い海軍大将となった日高壮之丞の実父だと思われます。
宮内によると、薩摩ではちょっと無礼なことがあるとすぐ刃傷沙汰になってしまい死人がでるが、その多くは周囲の者がはやし立ててけしかけたからだそうです。
薩摩の侍が修行する示現流(ないし自顕流)では、刀を抜いた以上は相手を斬り殺すか自分が死ぬかのどちらかしかないと教えています。
そして相手を殺した者はその責任を取って切腹するというのが決まりでした。
つまりいったん刃傷沙汰となれば、両者とも死ぬしかないのです。
そのようなことで若者が命を落とすのを憂えた重豪は、無責任にけしかける者たちに強烈なペナルティーを与えると宣言しました。
それは「刃傷沙汰になれば、命をかけた当事者だけでなく、現場に居合わせた者も彼らに殉じてその場で全員切腹せよ」と定めたのです。
それまでは諍いがあると面白がってはやし立てた面々も、居合わせた者全員がその場で切腹となると話がちがってきます。
トラブルが起こりそうなときはまわりが必死に止めるようになったので、刃傷沙汰はほとんどなくなったそうです。
重豪は隠居後も藩政を後見して実質的な最高権力者でしたから、このような新令を出してもおかしくありません。
今回は効果があったようですね。
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