重豪、江戸で馬鹿にされて発憤
薩摩訛りでイモ呼ばわり
宝暦4年(1754)7月、10歳の島津重豪は藩主である父重年に同行して江戸に着き、島津家の世子として幕府に届け出ています。
翌宝暦5年、病弱だった重年が亡くなったため、重豪は11歳で薩摩藩の8代藩主(島津家25代当主)になります。
祖父継豊(つぐとよ:5代藩主)が後見することになったのですが、彼も病気がちだったことから、幕府の許可を得て温泉治療のため薩摩に帰っていました。
この継豊はその後江戸に出ることなく、薩摩滞在のまま5年後の宝暦10年(1760)に亡くなっています。
つまり、重豪は藩主となったものの、教え導いてくれるはずの祖父は遠く離れた薩摩にいるという状況だったのです。
当時の様子を、島津家事績調査員の市来四郎が史談会でこう語っています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)
重豪公は世子となられて江戸にお出になって、大広間の大名方のご交際も始められて、その時分はお大名中のご交際ははなはだ放逸(ほういつ:節度をわきまえず勝手気ままにふるまうこと)なものであったそうですが、言詞が薩摩唐人とか或いは芋武士とか言われたことも毎々(まいまい:しばしば)あったそうです。
【「薩摩国風俗沿革及国勢推移の来歴附二十六節」『史談会速記録 第34輯』】
「大広間の大名方」というのは、江戸城の殿席(でんせき:城中の控え室)として大広間が割り当てられている大名で、外様の国持大名(=大大名)クラスと御三家の分家などの家門大名(徳川一族)がこれにあたります。
大名で最も石高が大きいのは加賀百万石の前田家ですが、外様でもここだけは別格で御三家と同じ最高ランクの「大廊下」(松の廊下に面した部屋)が控え室になります。
島津家は前田家に次ぐ77万石なので、大広間では最大の石高です。
そういう島津家の世子なら一目置かれそうなものですが、重豪が江戸城デビューしたときはまだ無位無冠でした。
大名の社交ランクで重視されるのが殿席と官位です。
下にあげたのは「武鑑」という大名・幕府役人のデータブックですが、殿席と官位がトップ(名前の右肩)に書かれています(石高は末尾に記されるので、このページにはなし)。
『大成武鑑(嘉永5年)』より島津斉彬部分(ブログ主所蔵)
藩主の世子は江戸に住まなければならないのですが、前回のべたように重豪は分家にいたため薩摩育ちで言葉は薩摩弁、藩主教育を受けていないので大名の作法も知りません。
大広間の同僚となった大名たちは江戸暮らしの長い「都会人」ばかりですから、マナーを知らず訛りもひどい無位無官の田舎者が来たといって馬鹿にしたのでしょう。
じっさい江戸時代に薩摩で書かれた『倭文麻環(しずのおだまき:以前紹介した男色本とは別の書物)』という本には、薩摩から江戸に出たばかりの藩士が日本橋の呉服屋でフンドシを買おうとして言葉が通じず、荒物屋に行けと言われて、そこでも言葉が通じずにスリコギを出されたという話が紹介されています。
『倭文麻環』挿絵(国立国会図書館)
「或人荒物屋に行きまはしを買はんといへば屋の女大摺木を出せし故肝を禿したる所」
重豪はそこで、猛発憤して江戸スタイルを勉強し始めました。
市来は先ほどの話につづけて、「それがご残念で、言行共にご研究なされ、元来英邁機敏でござりますから、直ちに衆に抜きんでられたそうです」と語っています。
負けん気の強い重豪は、江戸の言葉や大名の作法・しきたりを必死で習得して、すぐにマスターしたようです。
そんな重豪にとってラッキーだったことには、身近なところに最高の先生がいました。
祖母竹姫
後見役となっている祖父継豊は療養のため薩摩に戻っていますが、彼の後室(後妻)である竹姫は江戸藩邸に住んでいました。
竹姫は京都の公家清閑寺(せいかんじ)大納言煕定(ひろさだ)の娘で、叔母が五代将軍綱吉の側室であったことから綱吉の養女になりましたが、婚約者が二度続いて若死にしたため不縁となり、気の毒に思った八代将軍吉宗が養女にして、妻を亡くしていた島津継豊の後室に押し込んだものです。
この竹姫は「器量は勝れないが、ことのほか利発で孝心にあつい」女性だったそうです。【畑尚子『幕末の大奥 天璋院と薩摩藩』岩波新書】
将軍家の息女というのは、実子・養子の区別なく、嫁いだのちも将軍姫君として優遇されます。
したがって結婚後も嫁ぎ先を見下すような姫君も多かったようですが、孝心のあつい竹姫は「嫁入りした後は島津家の家風にしたがう」としていました。
彼女には男の子が生まれなかったので、継豊の側室が生んだ宗信(重年の兄)を大変可愛がっていましたが、宗信は23歳という若さで亡くなりました。
その悲しみを補うかのように、江戸のことも大名のことも知らない10歳の少年重豪が出現したのですから、はりきって重豪の教育に取り組んだはずです。
本人の能力に加え、江戸城のしきたりを熟知している竹姫に養育されたことによって、重豪は短期間で都会人に変貌できたのだと思われます。
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