大名の意見<家来の意見

家来が承知しなければダメ

 前回は、名君といわれた大名の多くは家来のサポートがあったからだという話をしました。

同じことを徳川慶喜が明治42年7月の昔夢会でこのように語っています。

兵庫開港について、慶喜が4藩の代表(藩主または代理)に説明して承諾を得たのに、翌日家来たちが押しかけて、「そんなことは言っていない」と話を蒸し返したことがあったという回想です。

あの時分は諸侯というものは、つまり家来に良い者があれば賢人、家来に何もなければ愚人だ、家来次第といったようなもの。
そこで主人がそう言っても、家来が承知しなければそれは通らない。
それでまだ言わぬと言うのだ。
けれども言ったんだ。
此方では当人が言ったからという、家来の方ではまだそういうことは言わぬ、こういうわけ。
【渋沢栄一編 大久保利鎌校訂『昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談』平凡社東洋文庫】

徳川慶喜(国立国会図書館デジタルコレクション)


大名家においては藩主よりも部下の意見が勝っていたようで、そんな様子がうかがえるエピソードを勝海舟も書いていました。

日米修好通商条約(締結は安政5年[1858]6月)に関する出来事です。(「岩瀬忠震」勝海舟『追賛一話』 読みやすくするため現代文になおしています。原文はこちら

アメリカとの条約ができたとき(条約の条文ががほぼまとまった安政4年末)、ひろく諸大名を江戸城にあつめた。
そこで彦根大老(勝の記憶違い、老中首座の堀田正睦)がその主旨を伝えて言うには、
「今日皆さんを集めたのはほかでもない、和親と貿易は今では世界共通のことなので、回避することはできないばかりでなく、上手に運営すればたいへんに富国強兵の基となる。
詳しいことは(条約交渉を行なった)目付の岩瀬肥後守(忠震:ただなり)に説明させるので、よく聞いた上で各々の意見を述べてほしい」
ここで大老がしりぞき、岩瀬肥後守が進み出て条約交渉の顚末や条理をこまかく説明したが、はっきりした言葉でわかりやすかったことから、聴衆はよく理解してすこしの意見を言う者もおらず、皆がこの条約は時世に適しているので、これでなければならないと賛同し、主旨を理解して退席した。
しかし、あにはからんや、各大名が戻ってのちにそれぞれの意見書を幕府に出したところ、前日の賛同とまったく違い、前後の事情もわきまえない粗暴で軽率な意見ばかりで、ほとんど自分で言ったことを破毀しようとするものだった。
岩瀬はおおいに驚き、はじめてその意見書が臣下によって書かれ、君主といえどもこれを止める力がないことを悟った。
それで、各藩主のうちでその威権が臣下を制圧しており、かつ政治上の重要事項を相談できる才覚を持った人物を求め、その力を借りなければ目的を達成することができないと考えた。
そうして、水戸斉昭、鍋島閑叟、島津斉彬、山内容堂の諸公に説明したところ、彼らも岩瀬の説を理解しておおいに岩瀬を信頼したので、岩瀬の声望は世間に高くなったという
【勝海舟「岩瀬忠震」『追賛一話』】

岩瀬が助力を求めた4名は、原文では「水戸老侯、鍋島閑叟、薩摩世子、土州容堂」となっていますが、この時斉彬はすでに藩主であり薩摩世子は斉彬の幼い息子哲丸になりますから、勝の書き間違いです。

さらにいえば、斉彬は参勤交代で安政4年(1857)4月に江戸を立ち5月に鹿児島に着いていますから、岩瀬が説明したころには江戸にいなかったはずです。

勝の文章にはこのような間違いがあるので注意して読む必要がありますが、ここで注目したいのは、当時の藩主たちの中でしっかりした見識があって家臣をきちんと制御できていたのはこの4名だけで、あとは家臣の方が藩主をあやつっていたというところです。

先ほどの慶喜の回想ともあわせると、当時の様子がうかがえます。


岩瀬忠震の弁舌

ついでにいうと、勝の記述でもう一つはっきりしているのは岩瀬の説明がたいへん上手であったということです。

それについては、福地源一郎も著書『幕末政治家』のなかでこう書いています。

岩瀬は堀田を勧めて諸大名を招集せしめ、己れ自ら其中に進み出で、開鎖の利害を堂々と弁じ、幕府が条約を結ぶを以て国家の大利益を謀るの趣意を説きたり。
諸大名は内心その条約には不服の向きもありしかど、岩瀬の才弁に説伏せられては、目のあたり一語の異議を提出すること能わずして、皆謹聴し、敢て反対の詞を発する者も無かりけり。
【「岩瀬肥後守」福地源一郎『幕末政治家』】

つまり岩瀬の説明があまりにも上手だったので、条約締結について内心不服に思っていた者も反論できなかったということです。

岩瀬は井上清直とともに、日本側の全権として日米修好通商条約の交渉にあたり、米側のハリスから「こうした全権を持つ日本は幸福である」と言わしめた人物です。

安政5年(1858)6月の条約締結時は目付でしたが、翌7月には外国奉行に昇進しています。しかし、一橋派であったことから井伊大老にうとまれ、同年9月には作事奉行に左遷、安政6年(1859)9月には御役御免となって蟄居を命ぜられ、2年後には失意の中で44才の人生を終えました。

当時、幕府の現状に危機感をいだいていた優秀な幕臣たちは、現状維持の南紀派ではなく、体制改革をめざす一橋派の主張に賛同していました。

安政の大獄ではこのような幕臣たちも一掃され、現状に危機感をいだかない凡庸な役人に置きかえられてしまいました。

体制の安定をめざした井伊直弼でしたが、それが幕府の滅亡を早めてしまったといえるでしょう。




幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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