島津斉彬の教育改革(6/6)郷中教育の改定
郷中教育とは
郷中(ごじゅう)教育というのは、下級武士を対象にした薩摩藩独特の教育システムです。
江戸時代、各藩で武士の教育をになっていたのは、公立学校にあたる「藩校」と私立学校に相当する「私塾」です。
藩校で学ぶのは武士階級でしたが、私塾では町人や農民もふくめた広い階層の人びとを受け入れるところが多かったようです。
藩校と私塾には共通点があります。
それは教える人(先生)と学びの場所(教室)が決まっていることです。
しかし郷中教育においては、先生も教室も決まっていません。
郷中教育は、薩摩藩時代にあって、武士階級の青少年たちが、各郷すなわち各方限を単位にして、それぞれ学習団体を編成し、何等(なんら)の特別の施設も無く、特定の教師も無く、特別補助を受けるのでも無く、実に青少年たち自身が、自発的継続的に小団体学習活動を展開して、薩摩武士たるべき人間育成・人格形成を果たしてきた。
【鹿児島県立図書館編『薩摩の郷中教育』】
同じ町内(方限:ほうぎり)に住む、小学生から大学生までの青少年が、順番にどこかの家に集まって勉強や運動を教え合っているというイメージです。
郷中教育では年長者が年少の者を教えますが、教える人は確定していません。
つまり、決まった先生はおらず、教室は各家庭の持ち回り、藩からの補助もない、いわば地域単位で行なわれる青少年の自治活動です。
その郷中教育で行なわれていたことは、大別すると以下の三科目でした。
①四書五経や軍記物など和漢書の講読
②身体の鍛錬(自顕流などの武術、山野跋渉、年少者には遊戯による鍛錬もあり)
③詮議(せんぎ:問答、年少者向けには生活指導の質問も)
このうちで特徴的なものは③詮議です。
これは投げられた質問に対して即答するものですが、その理由も求められます。
たとえば、「自分の父が大病にかかり、殿様もまた同じ大病にかかっている。この病に効く薬をひとつだけ持っている場合、それは父と殿様とどちらに用いるべきか?」というような質問に対して、ただちに回答し、答えた後でその理由も説明できなければなりません。
これは一種の軍事訓練です。
というのも戦場では一瞬のためらいが命取りになるので、素早い行動が必要になります。
薩摩の武士たちは幼少時から、詮議という形で即座に的確な判断を下す訓練を行なっていたのです。
郷中教育における三つの教え
郷中教育の問題点
明治維新は郷中教育で育った薩摩の武士たちが中心となって成し遂げられました。
そのため、彼らをはぐくんだ郷中教育はすぐれた教育法として高い評価をうけており、イギリス発祥のボーイスカウトは郷中教育を参考にしてつくられたともいわれている※ほどです。
(※本当は違うらしい)
しかし斉彬藩主就任当時、郷中教育にはマイナスの面もありました。
まずは教育内容が軍事偏重だったことです。
さらに独善的かつ排他的になりがちという点も問題でした。
そのころの薩摩武士は勇猛であることが最高の評価だったので、郷中内での暴力沙汰が多かったばかりでなく、他の郷中とは日常的に喧嘩していたようです。
郷中教育研究の第一人者だった松本彦三郎は、斉彬藩主就任前のようすをこのように書いています。
郷中を出て他の方限に行くことはこのように危険であったから、稚児(ちご:元服前の少年)たちは方限外への外出を固く禁ぜられていた。
もし稚児がやむを得ず外出する時は、父兄または郷中の二才(にせ:青年)が、往復ともにこれに附随して、監督保護することとなっていた。
ひとり稚児だけでなく、二才であっても一人で他方限に行く時は、往々危難に遭遇し、同一方面で再三そういうことがあれば、危険方面として出向を禁ずることさえあった。
【松本彦三郎『薩摩精神の真髄 郷中教育の研究』尚古集成館】
斉彬の改革
人材育成に力を注ぐ斉彬が、このような郷中教育を放置するはずがありません。
新藩主として帰国した翌年の嘉永5年(1852)5月3日に、斉彬は各郷中の掟書(おきてがき:ルールブック)提出を命じました。【「二五一 府下各方限郷友交際ノ習慣上申」『鹿児島県史料斉彬公史料第一巻』】
掟書は対外秘とされているものが多いので、斉彬は「秘密にしている場合は封緘して提出せよ」との配慮を見せています。
斉彬という人は情報の重要性をよく理解していましたから、情報収集に際してはまず原典に当る、それができない場合は複数の情報源から確認する、という基本動作を徹底しています。
なので、部下にまとめて報告させるのではなく、掟書原本を自分の目で確かめたはずです。
彼は同月8日に家老の島津豊後に直接命じて、城下士の士風矯正の諭達書(上記鹿児島県史料518頁)を伝達させました。
そしてその伝達が形だけのものとならぬよう、以下のように細かく指示を出しています。
この士風矯正諭達書は、家老から大目付・支配頭などを経て、すべての郷中の二才(青年)・稚子(少年)にもこれを伝達した。
「十五歳から二十五歳まで」の二才(青年)は、一方限ずつ、支配頭宅に召し呼んで、この諭達書を納得するまで申し諭し、これを承知した二才(青年)に対しては、それに背かないことを誓約した「御受書」を支配頭宅で提出せしめた。
「前髪ある幼少の者共」即ち稚子(少年)は「親兄弟又は身近な親類並に方限内の年長の朋輩」から厳しく申し聞かせて、本人が必ずそれに背かないことを誓約した「御受書」を父兄等から支配頭へ提出させた。
【鹿児島県立図書館編『薩摩の郷中教育』()内は原注】
掟書を確認した斉彬は、掟書の改定も命じています。
当時改められた掟書のうち現在伝わっているのは下荒田方限の掟書ですが、それには「武士の心得」や「文武精励」とならんで「筆算の修業」が義務づけられています。
時代に対応する人材として、旧来の武勇一辺倒を脱して、計数能力をそなえたテクノクラートを育成しようとする斉彬の考えがよくわかります。
掟書の末尾には「此の節厚き思し召しを以て、士の風俗立ち直り候様、仰せ渡さる趣あり、組頭衆より郷中取締人迄も仰せ付けられ候につき、吟味の上、郷約の条目相定め候」とあり、斉彬の指示に従って改定がなされたと書かれています。
また、全員から「御受書」つまり承諾書を提出させて、指示の実行を確かなものにするところも斉彬らしいといえます。
郷中教育が斉彬によってこのように改められたことが、薩摩から沢山の偉人を生みだす大きな要因となったのです。
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