島津斉彬の教育改革(3/6)世の中の役に立つ学問に
江戸時代は学問イコール朱子学
江戸時代の中期以降は「学問」といえば「朱子学」のことでした。
戦国時代をおわらせた徳川幕府も安定期になると、新しい社会秩序を確立する必要がでてきます。
各大名も軍務ではなく、領内を安定させる秩序維持のほうが重要になります。
それにもっとも合致していたのが朱子学です。
朱子学の根本は「大義名分にもとづいて各階層の帰属関係をきびしく規定する」ことにあります、つまり現状維持を正当化する思想ということです。
高校の日本史教科書にはこう書かれています。
〔老中松平〕定信は、政治や社会に対して学者などが批判を加えることを好まず、言論をきびしく統制した。
1790(寛政2)年には聖堂付属学問所では朱子学だけを教えてそれ以外の学問を禁じ(寛政異学の禁)、役人の登用試験も朱子学にかぎった。
林家(りんけ)が主宰していた聖堂学問所も、幕府の官立の昌平坂(しょうへいざか)学問所とあらためた。
【五味文彦・鳥海靖編『新もう一度読む山川日本史』山川出版社】
明和3年(1766)刊 朱熹撰『四書集註』(国立国会図書館デジタルコレクション)
薩摩藩においても同様で、藩校造士館で教えているのは朱子学だけでした。
薩摩では寛政異学の禁に先立つ安永3年(1774)に造士館(当時の名称は「聖堂」)では「程朱の学(朱子学)」以外の「異学」を厳禁するとの通達をだしています。
しかし、幕末期のような変化の時代においては、現状維持の思想は邪魔になるだけです。
学問は今の世に役立たなければならない
リアリストの斉彬は、薩摩藩の教育をそれまでの教養主義的なものから、いわば「実学本位主義」とでもいうような内容に変えました。
斉彬は安政4年(1857)に「造士館学風矯正之御親書」をだし、造士館の教育内容を修正するよう指示します。
内容は造士館を対象としていますが、文末につけられた注釈(おそらく市来四郎の付記)によれば「造士館はもちろん、領国中一統へ申し渡すべく旨仰せられたり」とありますので、国中へのお触れでした。
さらに、書かれた時期は不明ですが、この親書の初稿ないし原案とみられる「造士館・演武館の学風矯正の件について島津久徴へ諭書」も残っています。
こちらの諭書の方がシンプルで斉彬の考えがよくわかるため、そのポイントを意訳してご紹介します。
①学問修業でもっとも大切なのは国を治め天下を平和にする道理を学ぶことで、現在の世にふさわしい政務を助けることをもっぱらにすべきだ。
②儒者は中国を重視するあまり、我が国を夷狄(いてき=野蛮人)同様にみなして、日本の歴史書を見ようともしない者がままあるが、それはたいへんな心得違いだ。
その国に生まれながら自国のことを知らないで他国のことのみ話すというのでは、孔子の考えにも合わないだろう。
③(漢文の)文章を書いたり文字を覚えたりするのが学問ではない、昔の聖人の金言を今日の世に置き直して現代にふさわしい政務を執り行なうようにするのが、まことの学問というものだ。
要するに「象牙の塔にこもって浮世離れしたことを教えるのではなく、世間に役立つことを学ばせるようにしろ」という指示で、それまでの朱子学オンリーから、日本の歴史や思想、さらには西洋の近代知識まで、社会に役立つ「実学」を幅広く学ばせるようにしたのです。
また、これは次回以降にご説明しますが、教育環境の整備にも非常に力をいれました。
このような姿勢は斉彬亡きあとに実質的な藩の指導者となった弟久光にも受け継がれ、慶応元年(1865)3月、鎖国の禁を犯した15名(引率者と通訳を合わせると19名)の英国留学生派遣につながっていくのです。
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