島津久光の率兵上京(7/7) 文久の改革

楊洲周延「千代田之御表 正月元日諸侯登城桔梗下馬」
(国立国会図書館デジタルコレクション)

改革の目的と概要

久光が大原勅使と江戸におもむいて幕政改革を実現させたことで、幕末の政局は大きくうごきます。それが「文久の改革」といわれるものです。

幕末史の研究者である久住真也大東文化大学教授は、文久の改革について次のように述べています。

「この改革では、開国という新たな状況で、世界に肩を並べるべく日本の強国化を目指すという壮大な目的のもと、かつてない大胆な制度改革と、本格的な西洋式陸軍、海軍の創設などの施策が推進されてゆく」
【久住真也『幕末の将軍』 講談社選書メチエ】

文久改革の中心となったのは政事総裁職の松平春嶽です。春嶽は西欧列強から日本を守るためには防衛力を強化する必要があり、それにかかる費用は各大名が現在負担している出費を減らすことでしか捻出できないと考えました。

これは久光もおなじ考えで、久光は8月19日に一橋邸で慶喜と春嶽に24ヵ条の建言を行なっており、そのなかに

「大名への課役等多額の入費となるものは止める。そうでなければ、外夷防御はもとより内乱の鎮静もできかねる。ただし朝廷の修復等は別段」
「参勤をゆるめないかぎり十分な海防の備えができない」
「参勤を緩和したうえで、江戸海をはじめとして海防の全備を大名一統へ申し付ける」
【佐々木克『幕末政治と薩摩藩』 吉川弘文館】

とあります。

春嶽はこの方針にもとづいて大名の負担軽減策をつぎつぎに打ち出していきました。具体的には江戸城登城のさいの従者数の削減や殿中儀式における衣服の簡素化、将軍・老中への献上物の原則廃止、町火消とともに江戸市中の防火をおこなう大名火消の廃止などです。

参勤交代の緩和と大名妻子の江戸居住免除

なかでも大きな影響をあたえたものが参勤交代の緩和でした。従来は1年ごとに実施していたものを3年に一度にして滞在も1年から100日に縮められました。さらに、江戸居住とされていた大名の妻子を国元にもどすことも許可されました。

江戸時代に各藩の財政を苦しめていた原因のひとつが、参勤交代の費用や国元と江戸の二重生活による経費増です。江戸においては生活費だけでなく、他の大名や幕府役人との交際も必要ですが、この費用もかなりの金額になっていました。

このような支出をけずって、それを国防費にまわそうというのが文久改革のねらいです。しかし、それは一方では江戸市中で消費されるお金が減ることになりますし、渡り中間のような「大名屋敷の非正規雇用者」たちが大量に失業しました。

大消費者であった大名や家来たちが国に帰ってしまったことは江戸の経済に多大なダメージを与えたはずですから、町人にとってはありがたくない改革だったことでしょう。当時は改革で職を失った奉公人たちが春嶽を襲撃するという風説も流れて、江戸の町が不穏な状況になったそうです【久住前掲書】。

ところで廃止された大名妻子の江戸居住ですが、じつはこれを始めたのは島津の初代藩主(18代当主)の家久です。家久は寛永元年(1624)に夫人や子女を江戸に置いて幕府に対する忠誠のあかしとしたので、他の諸侯も負けじとこれにならうようになったものです。見方によれば島津が始めて島津が終わらせた制度だったと言えなくもありません。

衣服の簡素化

殿中儀式における衣服の簡素化では、江戸城内の儀式における長袴(後ろに引きずる長いはかま)を廃止して短い半袴とし、城中での平服を従来の裃(かみしも)から羽織袴に変更しました。

改革の中ではあまり注目されないのですが、この衣服の簡素化も体制変革をしめすという点ではけっこう重要だと思います。

というのも、江戸時代の社会においては衣服のルールがこまかく定められており、着ているものを見ただけで身分と立場がわかったからです。

羽織袴は現代ではあらたまった衣装となっていますが、当時は略装です。現代風に考えるとクールビズに変更したという感じでしょうか。

幕臣の福地源一郎は文久の改革を批判

旧幕臣で明治にはジャーナリストとして活躍した福地源一郎(桜痴)は、文久の改革は見るにたるべきものがないだけでなく、儀式や衣服を簡素化したことによって秩序が乱れ、幕府の威光を落してしまったと手きびしく批判しています。

春嶽氏総裁にて行なわれたる幕府の改革は如何なる事になりしかと観れば、諸向より執政への贈物を止め、大名火消を廃し、御茶壺の上下を簡易にし、文書の繁縟(はんじょく)を省き、評定所の誓詞を廃し、月次御礼を止め、衣服の制度を略し、大小名の供連(ともづれ)を省きたる等にてありけるが、詰る所は陳腐の旧套を襲いたる改革にして、観るに足るべきものなきが上に、幕府の政略にはもっとも緊要なりける武家の秩序・典礼・格式・礼儀は、これがために一時に破毀せられたるが故に、将軍家の尊厳は、この時よりして大いにその威光を墜されたること、争うべからざるの事実なりき。
 この改革の中についても、最も幕府が諸大名を牽制するの利器たる諸大名参勤交代の期を緩め、常々在国在邑せしめ、その江戸屋敷に置きて将軍家に人質たらしめたる妻子を国許に移す事を許したるは、驚くべきの改革にてありき。
【福地源一郎著 石塚裕道校注『幕府衰亡論』平凡社東洋文庫】

幕府を中心として考えれば、これは福地の言うとおりです。そもそも大名に金銭的な負担を負わせてその力をそぐことが徳川幕府の狙いでしたが、その結果として国防の手当もおろそかになり、外国に対抗できなくなってしまったのです。

国防費捻出のために大名の負担を軽減するという政策は、必然的に、幕府の力を弱めることになりました。

福地源一郎
(国立国会図書館デジタルコレクション)

朝廷と幕府の関係が逆転

もう一つ見落としてはならないものは、久光の率兵上京の結果、朝廷と幕府の関係がそれまでとは逆になってしまったことです。

徳川幕府が天皇や公家のあり方について定めた「禁中並公家諸法度」にしめされるように、それまでの幕府と朝廷の関係は幕府が上位でした。しかし、大原と久光がもたらした勅命に幕府がしたがったことで、この関係は大きく変動しました。

そもそも今回の勅書伝達において勅使大原は、従来のように将軍が上座にすわって勅使が下座から勅書を献じるのではなく、勅使が上座にいて将軍に勅書を渡す形に変更するよう、強硬に迫りました。天皇が将軍より上位であるということを示すために、かつてない行動に出たわけです。弱体化していた幕府はこれを呑まざるをえませんでした。

その結果として、これ以降、政治の中心は江戸をはなれて京都に移っていくことになりました。旧館林藩士で歴史家の岡谷繁実(おかのや しげざね)は明治38年の史談会でこのように語っています。

(大原卿が)文久二年の五月東下されました。これが御維新になるひとつの原因であります。是より京都の勢は強くなり、関東の勢は地を掃(はら)った様になりました。
【岡谷繁実「館林藩岡谷繁実君維新前後国事鞅掌の事歴附二節」 史談会速記録第149輯】


幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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