鳥羽伏見の敗因は指揮官のせい

大軍を指揮する器ではなかった

 戊辰戦争の初戦となる鳥羽伏見の戦いの開戦時点では旧幕府軍は薩長の3倍以上の兵力を有し、かつ最新装備をそなえた幕府歩兵隊がいたにもかかわらず、初日から連戦連敗というありさまで江戸に逃げ帰りました。

明治の中頃から昭和初期にかけて活動した政治講釈師の伊藤痴遊(ちゆう)は、著書『隠れたる事実明治裏面史』で鳥羽伏見の戦いについてこう書いています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえています。原文はこちら

この戦闘(たたかい)が始まるときには、どんな者でも徳川の勝利と見ていたのである。
単に兵数の上から言うても、幕兵は一万三千からあった。
これに対して、鳥羽伏見の街道に関門を設け、幕兵の入京を拒んだ、薩長連合の兵はわずかに四千位のものであった。

その人数の上から見ても、到底戦争は物にならぬのが当然である。

ところが、いよいよ戦端を開くと、意外にも幕兵は大敗北となって、散々の体で大阪へ引き上げるのやむなきにいたった。

(中略)

薩長連合の兵はわずかに四千で、しかも後詰めの兵がないというくらいに微弱なものであったから、互いに相たすけて一生懸命、すなわち人心の和を得ておる。

地の利の上からいうても、あの方面は、敵兵を防ぐにもっとも適当であったから、幕兵の不利は言うまでもなかった。

ことに総帥の竹中丹後守は、この大兵を指揮するの器ではなく、各武将との間の連絡も取れなかった。

会津兵はその驍勇に誇って、勝手の行動を取る。

旗本兵はあまり強くもないのに、御直参という肩書きを鼻の先に掛けて我儘の働きをする。

その他にも、一致の行動を執ることの出来ぬ事情が、それぞれにあって、三日三晩の打ち続いての戦闘に、みじめな敗北を遂げてしまった。

【「徳川幕府の覆滅」伊藤痴遊『隠れたる事実明治裏面史』成光館出版部】

痴遊は、予備兵力を持たず背水の陣となった薩長には、助け合うしかないという「人の和」と、防戦に適した「地の利」があり、逆に大兵力の旧幕府軍は指揮官の能力不足に加えて各部隊が勝手な行動をとったために「みじめな敗北を遂げてしまった」というのです。

「総帥の竹中丹後守」というのは現場総指揮官となった陸軍奉行の竹中重固(しげかた)で、5000石という大身の旗本です。

竹中という姓で気づかれたかも知れませんが、重固は戦国時代の名軍師竹中半兵衛の子孫です。

しかしご先祖様のような知略はなかったようで、痴遊は竹中を「この大兵を指揮するの器ではなく、各武将との間の連絡も取れなかった」と酷評しています。

これに加えて旧幕府軍では、「会津藩はその驍勇に誇って(強さにおごって)」「旗本兵はあまり強くもないのに御直参という肩書きを鼻の先に下げて(直参というプライドにおごって)」勝手な行動をとり、その他にも一致した行動をとることができない事情がそれぞれにあったために敗北したというのです。

伊藤痴遊(国立国会図書館デジタルコレクション)


指揮官の能力不足

戦国時代と異なり、近代戦では指揮官の指示にしたがって、統一行動をとらねばなりません。

総指揮官である竹中の指示のもとで、各部隊が連携して戦うのです。

鳥羽伏見の戦いでは、痴遊が語っているように、指揮官が無能だった上に各部隊の連携も不十分でした。

そもそも作戦からして、ずさんなものでした。

旧薩摩藩士の高崎正風が、明治21年の史談会で西郷隆盛から聞いたという話を披露しています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)

伏見の戦争のごときは実は無謀の戦なり、大軍を一道に集め来るが如き、前軍破れば後軍は戦わずして潰れるの定理なり。
幾万の大軍なりとも恐るるに足らず、もし兵を諸道に分かちて進入する時は到底禦ぐの方略尽きたるならん。
しかしその先見なかりしは、人物乏しかりし証拠なり。
【「島津家事蹟訪問録 男爵高崎正風君ノ談話」『史談会速記録 第183輯』】

西郷は伏見の戦いは「無謀の戦」と決めつけています。

このとき旧幕府軍は薩長の3倍以上の戦力を有しながら、「兵を諸道に分かちて進入する」つまり兵を京都に入る全街道に分散させるということをせず、鳥羽街道と竹田街道(伏見)の2街道のみに集めたため、前軍が敗走して退却すれば後の軍勢とぶつかって全軍が大混乱におちいりました。

西郷は、このような事態を予見できなかったのは旧幕府軍に優秀な人材がいなかったからだと指摘しています。

これについては旧幕府側でも同様の感想を持っていたようで、鳥羽伏見の戦後に陸軍奉行並となり、その後榎本武揚とともに官軍に抵抗して函館まで戦った松平太郎が、明治32年に旧幕府史談会でこう語っています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなうとともに、明らかな誤字は修正しています)

伏見へ兵隊を出しましても戦争の決心でもなく、元より軍略は拙でして、敵よりも二三十倍の兵がありながら、また要所要所へ兵を配る策も行なわれず。
それに反して敵は少なくても、策が行なわれておりました。
味方の兵隊はちょうど観音参りの様にゾロゾロと進み行き、会津は黒谷より攻め入るなど申したことも空しくなり、佐久間は先鋒にて早く鉄砲に当りて死すようなことで、伏見の関門では、味方の応接方が帰る時、背後から鉄砲を押し付けて撃ち殺したという話でした。
不意に戦争が起こり、前に申したように、行列のようにひと筋に進みました事ですゆえ、策戦計画は行なわれず、伏見の伝習隊が戦争らしき戦争をしたのです。
兵粮は淀川を船で送りましたが、陸の方が早く敗れましたゆえ、船の着きました時分には兵粮は皆敵に取られてしまい、味方は玄米を食うような始末でした。
【松平太郎「旧幕府史談会席上に於て(其二)」『旧幕府 第3巻第7号』】

2,30倍の兵というのはオーバーですが、圧倒的な兵力差があったことは事実です。

目的は権力奪取のために薩長軍を排除して京都を制圧することですから、多人数の利をいかして、京都に通じるすべての街道から一斉に侵入すれば、少数の兵力で防ぐことは不可能です。

しかし、そんなことはせずに大阪からの近道である鳥羽街道と竹田街道(伏見)の2道のみに集中して「行列のようにひと筋に進」んだために、一方的に攻撃されて甚大な損害をこうむりました。

「策戦計画は行なわれず」とありますが、そもそもろくに作戦など立てず、この大軍を見れば即座に降参するだろうと増長していたとしか考えられません。

「先鋒にて早く鉄砲に当りて死」んだ佐久間というのは、歩兵第11連隊を指揮していた旗本の佐久間信久(歩兵奉行並)で、戦いの2日目に薩摩兵に狙撃された傷で死亡しています。

このひどい戦いにかり出された兵士たちは本当に気の毒でした。

戊辰戦記絵巻より「東軍戦死」(部分)


総司令官のうろたえぶり

現場の指揮もダメでしたが、旧幕府軍全体の司令官となる総督の大河内正質(まさただ)も無能でした。

老中格の職責にある正質は上総国大多喜藩主(2万石)で当時25歳、4月生まれで数え年ですから現在の満年齢ではまだ23歳です。

戦いに参加していた旗本の田中安国は、明治37年の史談会でこのようなエピソードを語りました。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)

橋本の関門に引揚げて参って見ると、淀川を隔てて橋本と山崎と砲戦最中でござりました。
若州小浜の陣屋がござります、それに参ると総督の松平豊前守(大河内正質)というが居らるる。
年も若い人で、その方に出まして戦いの状況を申して居りますと、山崎から前の方に参った注進が参って、山崎の所で藤堂家を始め柳沢其の応援に彦根の人数が出て来るという報知がござりまして、松平豊前守は総督をして居る人であるが、大いに驚かれて、此の時に私は総督でもする人がかく驚いては此の大軍を指揮することは出来ぬと思うた。
【田中安国「田中安国君征長時代より維新に至る経歴談附十一節」『史談会速記録 第138輯』】

鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍敗北の決定打となったのは、戦いの4日目、山崎関門における津藩(藤堂家)の裏切りでした。

京都盆地から大阪の平野に出るためには、ボトルネックのように狭くなった所を通り抜けねばなりません。

それが山崎地峡です(地形についてはこちら)。

北を天王山、南を石清水八幡宮のある男山にはさまれた山崎地峡では、旧幕時代から淀川を間にして北に山崎、南に橋本の両関門があり、旧幕府軍はここに大砲を備えて薩長軍を待ち構えていました。

橋本関門の守備は旧幕府軍、山崎関門は津藩が担当です。

その津藩がとつじょ裏切って、橋本関門に砲撃を始めたのです。

これにおどろく旧幕府軍に官軍となった薩長兵が突入し、旧幕府側は総崩れになって大坂城に逃げました。

田中は、津藩裏切りの報告をうけた大河内総督が動転している様子を見て、司令官がこのありさまでは幕府軍が負けるはずだと悟ったようです。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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